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雨月

Author:雨月
カウンセリングやヒーリングを仕事として*年
最近では、スピリチュアリストと言う方が通りが良くなりました。
生きとし生けるものが大好きで、人が大好きで、何より寝ることが好き!
人はなぜ生きているのか。人はなぜ生きなくてはならないのか。を求めて、旅を重ね、今、比叡の山中に庵を構えています。


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平和と命

オリンピックのメダルの数は
国にとって大切かもしれないけど、
それより以前にもっと大切なことがあると思う。
なんだか、始まる前から問題満載のオリンピック。

オリンピックの聖火リレーは
平和の使者、休戦協定の使者であるはずだった。
オリンピックの開催を告げる使者は、休戦の知らせをもたらす使者として
各地ではたいへん歓迎されたという。

その、オリンピックの開催を告げる使者は、
いまやトラブルの種を運ぶ使者となってしまった。

チベット問題は今に始まった問題ではない。
それを押して中国でオリンピックを開く決定をしたのでは?
中国の文化はわかっていたはず
それを踏まえて開催を決定したのではないのか?

それを、今になってなぜ?

オリンピックを開催するために、
たくさんの外国からの訪問客をもてなすために
街からのら犬、のら猫を排除しようとする国では
多分、路上生活者など生きていけないだろう。
より小さな命に優しくなれない場所に、より、弱き存在は存在できなくなる。

4000年を誇る歴史は、いったいどこに向かっているのだろう。

その昔、孔子や孟子を生み、道教が根付いていたこの国で
人はいかなる指針で生きていくのだろう。
宗教は、麻薬と同じで、たいへん大きながんにもなりやすい。
しかし、力弱き、心弱き人々にとって
今というストレスの大きな社会を生きていくために
必要な力ともなることは確かでもある。

宗教を排除するということは、
心弱き者は生きていく価値がないということと同じだと思う。
そうして、弱き他の存在への心配りや優しさをも
否定してしまうことにつながる・・・・
先日犬用のブログで、猫が虐殺される動画を載せた。

このとき、私にとって一番ショックだったのは、
作業に携わる人たちのあまりにも普通の表情であった。
そこには、痛みというものを感じている様子はなかった。
生きていくために、仕事だから仕方がない。
そういう諦観のような感情すら、感じることが出来なかったのだ。

かの国では、生まれ変わりを信じていたはず・・・・・
今、自分達が手にかけている生き物が、その生まれ変わりだとしたら?
自分自身が、野良猫に生まれ変わったら?
そのとき、同じように虐殺される側に回ったとき、
これもまた仕方がない。などと思うことが出来るのだろうか?
いや、そういった気持ちも、もうすでにないのだろうか。

日本の仏教は、チベットから中国を経てわが国に来た。
長いたびの間に、通りすがった土地土地の信仰や考え方を吸収し
今の日本仏教の日本の形となった。
そこには、中国大陸で培われた、道教や先祖崇拝の思想が色濃くあった。
今、日本人はとてもお墓を大切にする。
先祖の供養をとてつもなく大切なことだと思っている。
でも、どれだけの人が知っているだろう。
もともと、仏教には先祖崇拝はなかったことを。
仏教徒に墓はなかったことを。
今でも、多くの仏教国で、墓を見ることは無い。
これは根本的な仏教思想からきているのだ。

では、なぜ、日本でこれほどまでにお墓を大切にするのだろう。
それは、中国を通って日本まで来る間に、
いつの間には混ざってしまったものがあったからである。

それほどに日本に大きな影響を与えて来た中国。
その国で、今、犬猫の虐殺が国の方針として行われている。
いったい、この国は、どこへ行こうとしているのだろう。
そして、その中で、人々はどう生きているのだろう。
人の心の支えというものは、
政府がこうしなさいと言ったところで早々簡単に変わるものではない。
人々は、今、何を思って生きているのだろうか?
そして、私たちは、どうするべきなのだろうか・・・・
このところ、あまりにも重い悩みを聞くことが多かった。
そんな日は、
一日が終わったとたん
ぐったりと動けなくなってしまう。

ご相談の人数が増えたわけではない。
ご相談に要する時間が増えたわけでもない。

中身が濃いと言えば濃いのだが、
それよりもご本人にとって悩みが重いのだ。
それは、外から見ると、
そんなに大きな悩みでは無い様に見えることもある。
だが、悩んでいるご本人にとっては
食事ものどを通らなかったり
逆に甘みものを食べ続けていたり
夜安眠できなくなったり
体中に異変が出てきたりする。
そこまでに思い悩んでいるのだ。

そして、それを聞いていると、
じわじわと湿った重いものが押しかぶさってくるように感じる
相談の方は、これを、毎日毎日
毎時間感じ続けているのだろう。

第三者から見れば、
簡単に解決しそうなことでも
当事者にはまるでその解決が見えない。

そして、面白いことに(不謹慎だが)
こういったとき、人は寒さを感じる。
気温が特別に低いわけでもないのに、
どうしても身体が温まらなくなってくるのだ。

これは、心が冷え込んできたら
生存本能から、人は、冬眠状態に入ろうとする。
人と言うのは、
冬眠するように肉体はできていないが
これに応じて、新陳代謝を下げてしまうのだ。
もちろん、抹消への血の巡りも悪くなり
物の消化吸収も悪くなる。

こういったときは、
まずは動いてみることが一番いい。
特別に何かするというのではなく
家中の掃除をしてみたり
できれば、散歩や軽いジョギングなどで
軽く汗ばむくらいの全身運動をする。

つまり、肉体の面から心のこごえを取り除いてあげるのだ。
そして
身体を動かしている間は
今、悩んでいることに付いては考えない!
どんなにくだらない、些細なことを考えてもいいから
今、悩み、躓いていることに付いてだけは考えない。

さて、私も熱い御風呂に入ることにする。


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人と人がコミュニケーションをとるには
とてもたくさんの手段がそろっている。
直接あって話す。
それにしても、会議のように改まって話す。
お酒を交えながらじっくりと話す。
おいしいものを食べながら話す
きれいな景色を見ながら二人きりで話す
それ以外にも、
電話で話す
手紙を出す
ファックスを送る
伝言を頼む
最近では、手段はますます増えてきた。
携帯電話で話す
メールで送る
チャットで会話する
TV電話で話す。

コミュニケーションの手段は増えてきて
果たして、実際のコミュニケーションはどうなったのか?
より、親密に、コミュニケーションが取れるようになったのだろうか?
手段が増えた分、
ストレスや、気を配らなくてはならないことが
増えたような気がするのは私だけなのだろうか?
携帯やメールで簡単に連絡が取れるがゆえに、
すぐに返事が来なかったり、
相手が出てくれなかったりすると、
簡単に不安にもなる。

きっと、何か用事があるのだろう。
と、思いながらも、嫌われたのか?
もしかしたら、居留守?
などと、いらぬ気を回さなくてはならなくなる。

ついつい、着信を見落としたり、
携帯を忘れて出かけてしまったりすると、
とても悪いことをしたような気がしたりする。
携帯が無かったときには、考えられなかったことだ。
夜中でも、
携帯は個人につながっているから、
ついつい、連絡を入れやすくなる。
自分の時間と言うものと、人の時間と言うものが、
密接につながってきているような感じがする。

私自身は、携帯を持って、もう、20年になる。
以前は、携帯と言うもの自身が珍しかった。
料金もかなり掛かったので、
話も、早めに切り上げて当たり前だった気がする。
いま、携帯によっては、通話料が0円・・・・
おのずと、会話も長くなる。
携帯は、めーるは、私がどこにいようと容赦なく掛かってくる。
時々、逃げ出したくなるときがある。


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巷に、「癒し」と言う言葉が氾濫してきている。
「癒しキャラ」・・・
「癒しグッズ」・・・
ここでの『癒し』とはいったい何なんだろう?
心が傷ついたとき、「癒しグッズ」で癒されるのか?
心が傷ついていて、「癒しキャラ」で癒されるのか?
一時はその痛みから離れたように思うかもしれない。
でも、それは癒されたと言うことなのだろうか?

相手の痛みに共感して、
判ってあげられたとする。
それからいたすことへの一歩を
私たちはどうやって踏み出したらいいのだろう。
言葉と言うものはとても不自由なもので、
自分で思っている通りに伝わるとは限らない。

これまで生きてきた時間のすべてを共有することはできないし、
また、そんなことをしたとて、「癒す」ことができるとは限らない。
では、「癒す」と言うのはいったい何なんだろう?
時には、時間だけが「癒す」ことのできるものがある。
時には、人の心が「癒す」ことができつこともある。
いや、もしかしたら、「癒す」こと自身が幻なのかもしれない
今感じている痛みは
感じていると言う部分において現実だ。
なら、この痛みに対する「癒し」もまた現実なのだろうか
そうなら、この痛みを「癒す」何かがどこかにあるのだろう
それはどこに?

いくら一生懸命外を探しても
なかなかそれは見つからない
痛みでいっぱいの自分自身の中には
もちろん、「癒し」など存在しない

でも、大切なことは、
傷ついている自分自身が、
「癒される」と言うことを受け入れると言うこと。
あまりに傷口が痛いと、
何も見えなくなる。
何も聞こえなくなる。
それでも、時々見えてくるものがある。
それでも時々聞こえてくるものがある。
ほんのちょっとでいい。
隙間を空けておきたい。
そして、自分自身が癒されるとき、
いつの間にか周囲もまた「癒されている」ことに気がつくだろう。

無理をしなくていい。
こうじゃないといけない!
などと言うものはそんなにはない。
こうじゃないといけない!
は、人から押し付けられたものだったり
自分自身でいつの間にか作り出したものだったり
「こう」でも「そう」でも「ああ」でもみんなそれでいい
人生に教科書は無いのだから
人生に試験もまたないのだから
自分自身に点数をつけるのは自分しかいない
思い切り甘い点数をつけても
思い切り辛い点数をつけても
「自分」と言うものに変化が起きるわけじゃない

「癒す」ことも、「癒される」ことも
どちらも同じこと
同じ所にある。


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