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雨月

Author:雨月
カウンセリングやヒーリングを仕事として*年
最近では、スピリチュアリストと言う方が通りが良くなりました。
生きとし生けるものが大好きで、人が大好きで、何より寝ることが好き!
比叡の山中に庵(虹の風)を構えています。
疲れたら、一休みしにいらっしゃいませんか?
琵琶湖の風に吹かれ、鹿やいのししの声を聞き、鳥に目覚めを即される。そんな庵です。


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私は尼僧でもある。
尼僧と言うことは、当然、出家をしていると言うことであり、
出家をするというのは、
日本においては、
得度式と言う儀式を終えることでもある。
この、得度の儀式において、
「十戒」(十善戒)を授けられるというのを知っている人は少ないと思う。

一般に、「十戒」といえば、
「モーゼの十戒」を連想することと思う。
映画にまでなったので、覚えている方も多いことだろうが
ここにその内容を記載すると、

私以外の何者も神としてはならない。
偶像を作ってはならない。
主の名をみだりに唱えてはならない。
週に一度は休日としなさい。
父母を敬いなさい。
何をも殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗みを働いてはならない。
隣人のことを偽証してはならない。
他人の物を欲しがってはならない。

である。

実は仏教の「十戒」も内容的には似たようなものである。

不殺生(ふせっしょう)・・・むやみに生き物を傷つけない
不偸盗(ふちゅうとう)・・・ものを盗まない
不邪淫(ふじゃいん)・・・・男女の道を乱さない
不妄語(ふもうご)・・・・・うそをつかない
不綺語(ふきご)・・・・・・無意味なおしゃべりをしない
不悪口(ふあっく)・・・・・乱暴なことばを使わない
不両舌(ふりょうぜつ)・・・筋の通らないことを言わない
不慳貪(ふけんどん)・・・・欲深いことをしない
不瞋恚(ふしんに)・・・・・耐え忍んで怒らない
不邪見(ふじゃけん)・・・・まちがった考え方をしない

以上十の戒律である。

もともと、仏教においては、
その守るべき戒律は数知れない。
二百五十戒とも三百四十八戒とも言われるが、
こんなに細かい戒律を覚えている人はまずいないと思う。
上記の十善戒が、根本となる戒律であり、
これを得度のときには、
しつこいほどに守ると誓うことになる。

そして、これらは、たとえ出家でなくとも、
本来、人として守るべき教えである。
一つ一つじっくりと読んでみれば明らかであるように、
ひとつとして、
仏教でなくてはならない戒律などない。
「モーゼの十戒」もそうだ。
毎日、人が人として守るべき教え。
根本となる生きる心得ともいえるものである。

勿論、これら2つの戒律は、
完全に一致しているわけではないが、
大変に似通った精神が説かれている。

以前、オカルト系の雑誌がたくさん刊行されていたころ、
世界の宗教の歴史のようなことについて
いろいろと取りざたされていた時期があったと思う。
極論に至っては、
総ての宗教の根源をひとつとまでしたものすらあった。
それも無理ないことだろう。
人が人としての遺伝子を同じようにもち、
人種や肌の色、血液型を異なれども、
お互いに種族間婚姻、繁殖が可能であること 。
いや、可能というより、生物学的遺伝子学的に見れば
同じものであるということは
我々人間という生命体の根源は
ひとつの流れの中に集約するに違いない。
アダムとイブのように
たった一組の固体にたどり着くと言うのではないが、
大きな流れとして、
その源流は同じところにある。
肌の色や紙の色、目の色など人種の違いは、
その大きな流れの支流に過ぎない
とおもうのである。

根源が同じところから発しているせいか、
おのずと、基本的な思考回路も似たようなものとなる。
世界中の宗教と言われるものにおける、
人の生きるべきあり方。
(何を信じるかではなく、どう生きるべきかの部分)
と言う部分において
大きく共通点があるのは。
生命そのものの根源が同じところに存在しているからだと思える。
それゆえにこそ、
宗教的な部分や、精神的な部分において、
同じような結論に至ったとしても、
それはとても自然なことなのである。

先に掲げた、
「十戒」にしても、「十善戒」にしても、
人間が、群れとして存在する社会を営むにあたって、
よりストレスが少なく、
よりその生活が円満、かつスムースに運ぶか
それが根本にあるのである。
つまり、社会生物である人間が
社会を形成しつつ生きていくための
最善の方策であり、
最低限必要な守るべきルールなのである。

人間以外の動物は、
もっとシビアな形での「戒律」をもつ。
人間の倫理観とは全く相反するように見えるものも多いが、
それはそれで、
その生物が生き、そして繁殖し、種として存続するためには、
大変効率よく、又有効な方法なのだ。
それを、
本能、という一言で片付けていいものだろうか?
それが本能だというのであれば、
人が「十戒」を求めるのもまた、
人間の心の本能であるといえるのかもしれない。

ならば神は?
より高き存在は?
神の本能とはいったいどのようなものだろう。

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心頭滅却すれば火も自ら涼し
と言う言葉はあまりにも有名ですが、
どんな意味だと思いますか?

先日、この話題が出て、
答え1
悟りを開いたら燃え盛る火の中にいても、熱く感じない。
答え2
頭が熱いといっていることを感じなくすれば、燃える火も熱くなくなる。
答え3
心からも頭からも今、火の中にいるということを締め出せば、熱い火も熱く感じなくなる。
答え4
今、熱くないんだと自己催眠をかけたら、火の中にいても熱くない。
主な答えですが、
このような感じの答えが出てきました。
さて、正解は?
と、クイズではないので話を進めますが、
これらはすべて、正解で、不正解です。

この話はもともと、
こんな背景で語られた一文の一節です。

「碧巌録(へきがんろく)」は、「従容録(しょうようろく)」とともに、
禅門の2大禅書と言われていますが、
そのうちの「碧巌録(へきがんろく)」の前半の部分に、
「安禅(あんぜん)必ずしも山中をもちいず、心頭滅却(しんとうめっきゃく)すれば火も自ら涼し」
と言うのが出てきます。
この言葉は、甲斐の国(現在の山梨県)の鎌倉期に
夢窓国師を招いて開基した 甲州随一の名刹(武田信玄の菩提寺として有名)として名高い
恵林寺(えりんじ)の禅僧、
快川紹喜(かいせんしょうき)が、この「碧巌録(へきがんろく)」を大変に好んでおりました。
時の権力者織田信長に抵抗し、
信長の怒りにふれて寺に火を放たれてしまいます。
このとき、禅僧快川は少しも動ぜず、
上記の一節である
「心頭滅却すれば火もまた涼し」を唱え、
火中で禅定(ぜんじょう)に入ったまま焼死してしまいます。

これらの背景を考えながら、
この一説をもう一度考えてみると、
違った一面が見えてきます。

もともと、これは禅問答の一部でした。
良く、
宗教弾圧の話の中で、
キリスト教の殉死の話がありますが、
信念を貫くために、
あえてその拷問や死を受け入れるといった部分です。
日本における
キリシタン弾圧の歴史に、
オラショを唱えながら、火に焼かれた。
と言った部分が良く出てきます。
快川紹喜は、決して悟って、それゆえに
火の中にあって熱いと思わなかった。
と言うわけではないのです。
身を焦がす火の中にあって、
そこから出ず、死する。
そのためには、大変な精神力が必要です。
その精神力を、
日ごろから信念としてきた書物の一説に求めた。
それがこの「心頭滅却すれば・・・・」
だったのだと思います。

この禅書に出てくる
一説を唱えることによって、
自分は自分の信じる所に殉ずる。
死してなお、自分の信念を貫く。
自分自身の信念において行った行為の結果、
たとえ殺されようとも、
織田信長という権力にひざは折らない。
なぜなら、ひざを折ることは信念を捨てるのと同じ行為だから
だから自分はこの火の中で死んでいくのだ。
と言っていたのです。
いわゆる、憤死に近い、
いや、憤死そのものだったと考えられます。
この時代、織田信長の残虐性は周知の所だったから、
快川紹喜は、たとえ、降伏した所で、
自分が殺されるだろうと言うことはわかっていたはずです。
この時代、
僧侶と言うだけで、
殺されずにすむという時代でしたが、
その例外が織田信長という人間でした。
織田信長は、たとえ僧侶であろうと、
自分に反抗するものは死を持って排斥したのです。

これに対して、
快川紹喜は、同じ殺されるなら、
憤死という方法で、
残された人々への勇気と、
ここに、権力に屈しない人間がいるんだと言うことを、
周囲の人々とともに、織田信長にも知らしめたかったのではないでしょうか?
そして、残された人々に、
権力に尾屈しないで信念を貫くことが出来る。
信念の為に殉じることが出来る人間がいる。
信念とは、命を欠ける価値がある。
と言いたかったのだと思います。
これは、彼の禅僧としての生き方の総決算であり、
彼が死してなお禅僧であろうとした
その生き様の表現だったのでしょう。
一種のやせ我慢でしょう。
それも、一級のやせ我慢だと思います。
しかし、それだからこそ、
後世まで語り継がれ、
今、現在の私たちでもこの言葉を知っています。
それだけでも、
快川紹喜の憤死の意味があったと思うのです。

実際に、
最初の答えのような状態と言うのはあると思います。
たとえば、
真冬に雪が降る中で滝行をするときがあります。
滝に入るまでは身が凍るように寒いのに、
真言を繰り返し唱えているうちに、
水の冷たさ、空気の冷たさなど、
感じなくなることが良くあります。
(もっとも、この状態で長時間いるのは危険なので、
 必ず先達が付きます。
 どうか、一人でまねはしないでください。)
一心に何かをしているときに、
時間をまったく感じなくなったり、
大声で呼ばれても、まったく聞こえなかったりする。
これらも
よく似た状態だと思います。
しかし、それは、夢中になる。
とそれほどの違いはありません。
しかし、状況から考えると、
快川紹喜は、信長に対する憤怒のあまり、
この状態になったと考えるよりは、
(なぜなら、憤怒からわれを忘れたのだとすると、
 心頭滅却している状態にはない。のですし)
憤死したと考えるほうが自然でしょう。
壮大なやせ我慢の
「心頭滅却すれば火もまた涼し」

私は、大好きです。
このくらい壮大なやせ我慢、
意地と信念とと命をかけたやせ我慢。
信念を持つとは、
ひたすらにこうあることなのだろうと思う。

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仏の心とは

日本の仏教においての大きな儀式のひとつに
得度式というのがある。
得度式とは、
仏教に帰依し、仏道に入り、出家することである。
これを経て、初めて人は僧侶と呼ばれる身となる。

問題なのは、
この得度をした瞬間から、
お坊さま と呼ばれる存在になることだ。
たいていの人が、
お坊さま に出会うと、自分のほうから頭を下げることが多い。
坊主のどこが偉い?
坊主のどこに頭を下げる?
坊主のどこに頭を下げさせるものがある?
ほとんどは、伝統の力である。
日本の仏教の歴史において、
たくさんの傑出した僧侶は出現した。
彼らは、真剣に、修行し、道を求め、
本当の救済とは何かを突き詰めていた。

今の僧侶に、
その心はあるだろうか?
実際、私自身が所属していた寺院においても、
一番最初に心配していたのは、
お寺の維持費に関することだった。
毎月の管理維持費をどうやって捻出するか。
どうやって信者さんからその費用を集めるか。
今、伝統がある寺院であればあるほど、
その維持にもお金が掛かる。

つまり、仏事そのものも、大きな経済の流れなお中に埋没してきているのだ。
伝統を守ることはすばらしい。
何百年も維持してきた建物を、
そのある姿で維持することも意味があるだろう。
しかし、ここは寺院である。
寺院として一番に大切にしなくてはならないのは、
人々の心の安寧であり
人々の悩みや迷いにどのように対応するかではないのだろうか?
そして、僧侶自身が、
自分自身の中を見つめ、仏道に精進し
仏陀が目指した高みへと
自分自身を押し上げることなのではないだろうか?

ほかのお寺に関しては知らないが
私の目にし、耳にしていた仏教界というのは
見栄や、外見、地位が優先される世界だった。
いまや、出家と言っても
本当に家族や自分自身のもろもろのものとの縁を切る方はほとんどいない。
これは私の寺だけのことではない。
出家する前に、じっくりと考えることが出来る時間も無い。
と言うか、そんな修行期間を設けている期間そのものが減ってきた。
あっても、形に流れすぎている。
本人の、意思や、(まあ、本人の意思なしに出家するなんているはずはないが)そのために必要な時間の違いに関係なく、
まるでベルとコンベアに乗せられているかのように物事が続いていく。
流れに乗っていれば
位を得、住職になったり、役職になったりする道が開ける。
もっとも、それすら、
お寺の子供であるかどうかが問題だったりするのだ。

出家は個人の問題のはずなのに、
お寺を継ぐために、
お寺の権利を確保するために、
お寺の子供や縁者が出家し、
そのお寺に帰ってきて後を継ぐ
何のための出家?
家を守るための出家?

まじめな僧侶の方もたくさんいらっしゃる。
ある、年若い僧侶が言った
もうすぐ規定の修行期間は終わるけど、
家に帰ってどうしたらいいのかますます分からなくなった。
私の言葉が、
信者さんのどんな役に立つのか自信がない。
自分自身が、世間と言うものをまったく知らない。
そんな自分がいったい何を言えるのだろう?
と、

こんな方ばかりなら、
まだまだ救われると思う。
彼が、この気持ちを自分のお寺に帰っても無くしていないことを切に願う。

その反面、
こんな話がある。
自分のところで出した戒名をつけなければ、
葬式は出してやらない。
寺の墓地にも埋葬させない。
などと言うお寺が実際にある。
無くなった方が遠方に住んでいたため、
無くなったときに、現地のお寺で戒名もつけてもらっていた家族は、
戒名を付け直すべきかどうか迷った。
しかし、それもまた失礼な話となるし、
この宗派は、
戒名料も馬鹿にならない金額で
それを二重払いすることになるのである
困った家族は、
霊園に墓地を構え、
お寺の墓地からお墓を引き上げる羽目になった。

こんなことがあっても、
その寺からは、ずっと、寄進の請求やお願いが来るのだそうだ。
何代も前からお付き合いのあるお寺
もちろん、お寺にだって事情はあるだろう。
しかし、人にはそれぞれ事情と言うものがある。
きちんと聞いてあげ、
それに応じた対応をすることは出来なかったのだろうか?
お墓と言うのは面白いもので、
その土地が個人のものになるわけでなく、
墓地としての使用権を売り買いする。
そのお寺は、
彼らがお墓を引き上げた後の墓地をすぐに転売したそうだ。

こんな話を聞くたっびに、
五体投地を繰り返しながら巡礼する
ネパールやチベットの人々の姿が浮かんでくる。
ボダナート近くの寺院で、
遠く、チベットにいる仏教徒の身を案じる
転生仏の言葉を聞いた。
身の危険を顧みず、チベットに仏画を運ぼうとする人々に出会った。
転生仏に会うために、何百キロも歩いてきた仏教徒に出会った。
肌身離さず数珠を繰る翁に出会った。
今の日本の方にそれをしろ。と言うのではない。
日本でもそれが当然だと言うわけでもない。
ただ、その中に息づく心は?
その中に込められる気持ちは?
と思うのみである。

人の痛みを感じようとすると、
それは自分自身の痛みとなるかもしれない。
それでも
痛みを感じない人間にはなりたくないと思う。
人の痛みを引き受けてあげることは出来なくても、
人の痛みを理解できる人間になることは出来る。
人の痛みを癒してあげられなくとも、
より大きな痛みを与えることのない人間になることは出来る。

自分自身の痛みを感じるとき、
そこに、人の痛みも感じることが出来る。
そんな人間でありたいと思う。

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今日のことだ。
結構お年を召した方がいらっしゃって
位牌を作りたいのだけど。
作っても良いでしょうか?
とおっしゃられる。
私も、一応はちゃんと得度もした尼僧なので
お位牌のご相談には良く預かる。
今日見えられた方も、最近良くあるご相談の流れだった。

位牌って何か?
は、たいていの方がご存知だと思う。
仏教徒の家において
亡くなられた方をお祀りするための、依り代となる木製の札

と言えばわかりやすいだろうか?
現在の日本において
位牌や仏壇を見たこともない。
と言う方は大変珍しいだろう。
もちろん、自宅に仏壇の位牌もないという方はたくさんあるし
先祖代々神道だ。
と言う方もいらっしゃることとは思うが、
お友達の家や、ご親族、果てはテレビドラマや映画の中にも、
仏壇はしょっちゅう顔を見せるので
まあ、見たことがない。
と言う方はいないと思っている。

ところが!
意外とその歴史は浅い。
日本の歴史からすれば、
いや、日本に伝来した仏教の歴史からしても、
結構新しい習慣なのである。

下に、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
による記述を転載する。

位牌(いはい)とは、死者の祭祀のため、死者の戒名などを記した木の板をいう。
中国の後漢時代から儒教の葬礼に用いられる神主(しんしゅ。死者の官位・姓名を書く霊牌。)と同視されたため、「位」牌と呼ばれる。またその起源は、霊の依代(よりしろ)という古来の習俗と仏教の卒塔婆が習合した物ともされる。日本には禅宗と共に鎌倉時代に伝来し、江戸時代に一般化した。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

このように、
一番古くても鎌倉時代。
一般的には江戸時代に定着した習慣だと言える。
江戸時代だとすると、
長く見積もっても最大で400年
普通に考えて300年ほどのことだと言える。
われわれが日本の歴史として認識しているのはほぼ3000年だが、
300年はその10分の1に当たる。
これを長いと見るか、短いと見るか、
私は伝統や習慣を否定したり、軽く見るものではないが、
それに縛られすぎて、大切なものが見えなくなるのはもっと怖いと思っている。

今回、問題となったのは、
位牌を作って良いかどうか?
と言うことであった。
嫁いだお姉さんが、子供のないまま、ご主人にも先立たれ
つい最近みまかられたが、
この位牌を、妹である自分が作っていいのだろうか?
といったもの。
もちろん、すでにひとつ位牌はあって、
お姉さんの義理の甥子さんが東京に持って帰るという。
高知にずっと住んでいて、
最後まで高知を出たくないといっていたお姉さんの位牌を
せめて高知においてあげたい。
でも、姉は嫁いだので姓が違うから、
私が位牌を持ってはいけないんですよね。
という。

本来、位牌は、なくなった方の肉体の代わりと考えられてきた。
そこから考えれば一つなのかもしれないが、
そんなことにこだわる必要はないと思う。
先にも述べたように、
もともとは日本にはなかった習慣だし、
本来の仏教の観点からしても、
必要不可欠なものではないのである。
もともとは儒教のもので、仏教の習慣ですらなかったのだ。
もっとも、この300年ほどで、
日本においての仏教の先祖祭りの習慣として根付いたので、
これを否定するつもりはない。

ただ、祀ると言うのは、本来心の問題であり、
嫁いだから親子の関係がなくなるわけじゃない。
嫁いだから、兄弟姉妹でなくなるわけじゃない。
それよりも、
お姉さんを祭ってあげたいという妹の気持ちが大切なのだから、
堂々と位牌を作って持てばいい。
彼女も子供がないということなので、
自分が祀れるだけ祀ったら、
後は永代供養に出すか、
甥子さんが位牌はもうひとつちゃんと祀ってくれているのだから
お炊き上げしてもらってもいい。

そんな話をさせていただいた。
あちこちで、
色々なことを言われていらっしゃったようで、
とても不安そうだったお顔が
明るくなるのがわかった。
高知にずっといたい。
あんたと一緒に暮らしたい。
といったお姉さんの言葉と、
姉妹としての愛情の絆と、義理と
何かたたるんじゃないかと言う恐怖と
色々なことで疲れきっていた心が軽くなったとおっしゃっていただけた。

宗教、宗派で、それぞれ祀り方は違うだろう
それぞれに積み上げてきた方法もあるだろう。
しかし、その前に、
残された人が、
先に行った人を悼む気持ち、
先に行った人を思いやる気持ち、
それが一番大切なのだと思う。

宗教が違っても、行き着く先の霊界は同じだ。
国が違っても、
人種が違っても、
祈る言葉が違っても、
埋葬の方法が違っても、
死者を悼む心は同じであり、
死者の行き着く先の霊界も同じだ。
自分自身の納得がいくように、
自分自身に胸を張ることができるように、
心からのお祀りの仕方というものを考えてみる。
そんな時代が来たのかもしれない。

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