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雨月

Author:雨月
カウンセリングやヒーリングを仕事として*年
最近では、スピリチュアリストと言う方が通りが良くなりました。
生きとし生けるものが大好きで、人が大好きで、何より寝ることが好き!
比叡の山中に庵(虹の風)を構えています。
疲れたら、一休みしにいらっしゃいませんか?
琵琶湖の風に吹かれ、鹿やいのししの声を聞き、鳥に目覚めを即される。そんな庵です。


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考える力

「疑問」
というはっきりしたものを持つのは
多分人間だけだろう。
「疑問」
があるから、
そこに、「考える」という行為が生まれる。
「考える」という行為から、
進歩や文明が生まれ、言葉が生まれ、文字が生まれた。
「考える」ということから、相互コミュニケーションや
討論、議論が生まれ、
社会というものが生まれた。
今、地球上に在る文明は、
「考える」という行為の上に成り立っているのだ。

人間以外は、
なぜ春の後に夏が来るのだろう?
なぜ雨が降るのだ?
といったことは考えない。
春の後には何もしなくても、夏が来るし、
雨は自然に降るのだ。
そこに、なぜ?がなければ、
たとえば暦を作ることもないだろう。
たとえばダムを作ることもないだろう。
それらは不自然なものかもしれない。
ナチュラリストによれば、
総てが地球を汚す行為となるのかもしれない。
ある意味、それは正しい。
なぜなら、その結果として、
人間は必要以上に死ななくなった。
必要以上に増殖することとなった。
自然そのままだったら決して生存できない人口
地球の存在するはずのない人間の人口
これがそのことを如実に表している。

いまさら、人は「考える」事をやめるわけにいかない。
それはすでに人間のアイデンティティーとも言える事だから。
いまさら、総ての思考を放棄して、
自然のままに暮らせといわれても、
それは不可能なことだろう。
なら、
「考える」ことだ!
とことん「考える」ことだ!
何を「考える」のか?
私たちが、ここに居る意味を。
人間という特殊な種が、誕生した理由を。
総ての生き物は、
不必要には存在していない。
全ての命は、必要とされてここにある。
それなら、人間という種が、
「考える」という能力を与えられたのにも、
何らかの必要性と役割があるに違いない。
そして、それは、われわれ「人間」のためだけにあるのではないだろう。
「人間」のためだけにあるようなものであれば、
もっと普遍的に存在する。
地球上にただ1種類の種にのみ与えられているということは、
それだけ、「地球」にとっても重いことだということだ。
多分、「地球」にとってだけではなく、
「宇宙」にとってもそうだろう。

「宇宙」にとって、
「考える」という特性を持った種が
地球上の人間だけだというつもりはない。
もちろん、ほかにも居るだろう。
ただ、それがあまりたくさん居るわけでないのは、
創造にしくはない。
どれが良いとか、どれが悪いとか、どれが大切だとか言うのではない。
それぞれに、それぞれにお忌みがあってそこに存在しているのだ。
「人間」は、
「人間」にしかできない何かを持っている。
それを、いかに使用するか、
いかなる方向で伸ばしていくか。
それは私たち個人一人一人に課せられている。
誰かが代わりにしてはくれない。
「考える」というのは、
個人一人一人ユニークさを持つということだから。
「考える」ということは、
何者にも制限を受けないことだから。

考えよう。真剣に!

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疑問と到達

人の体は何からできているか?
この単純な質問に対する答えは多岐に渡る。
水とたんぱく質?
遺伝子?
心と肉体?
質問の捕らえ方によって、
答えはさまざまに分かれる。
分かれるというより、
さまざまな見方、考え方が存在するということだろう。

これが、
机は何でできているか?
という質問だったら、
事はすこぶる簡単である。
では、なぜ、人間だとこんなに複雑になるのか?
それは、私たち自身が、
自分とは何であるか?
という疑問を常に持っているからだろう。
物事に疑問を持つ生き物は
この地球上においては私の知る限り人間だけのようである。
人間だけに与えられた特権というよりは、
人間という種に与えられた苦悩と言った方が近いかもしれない。

先だって、
権利と責任ということについて述べたが
これに共通するものが
この疑問の中にあると思う。
「知る」と、「知らない」の間にあるもの。
果たして、私たちは何でできているのだろう。
人間という種を特定するのは、
いったい何によるのだろう?
先ほど書いたように、
物事に疑問を持つ。
というのは人間の特性である。
ただ、これは心的属性であり、
肉体的属性ではない。
心に疑問があると、肉体はどのようにそれを表現し、
受け止めるのだろう。

その疑問が解決したとき、
われわれの前に何があるのだろう。
その昔、仏陀は生まれ変わりを恐れた。
老いたり病にかかったりする存在に
そういった存在に生まれ変わることを
彼は恐れたのだ。
これまで幸せで、何不自由なく、美しいものにのみ取り囲まれて育った仏陀にとって、
老いや病はとても醜く写ったことだろう。
醜さを恐れる気持ち。
それが偉大なる仏陀を生み出した。

なんと言う皮肉だろう。
なんという純粋さだろう。
ただただ、醜くない存在であろうとしたあまりに、
命の限りを尽くし、あるとあらゆる修行をし
そして真理にたどり着いた。
スタートは、われわれから見ても、単純で、不純なものだった。
ただ、純粋ながゆえに、真剣に取り組んだ結果、
偉大なる真理に行き着いたのだ。
大切なのは、
目標を持って真摯に努力すること。
持てる力の総てを尽くして、
目標に向かうこと。

このとき、手段は問題ではない。
結果が問題なのだ。
いかなる手段をとろうとも、
目標さえはっきりとしていれば、
そこに至る道は必ず見えてくる。
常に、疑問を持ち、目標を見据える。
そうすれば、どんなに遠回りに見えた道でも、
目標にたどり着くことができるのだ。

あきらめなければ

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霊長類としての人

以前、命は平等だと書いた。
人間の命も、犬の命も、猫の命も、草木の命も、魚の命も、
命と言う部分では平等だと思う。
人間が霊長類などと言うおごった名前を自分自身につけ
人間が最高に生命体のように思い始めたのはいつのことなのだろう。
正確に言えば、霊長類の中には、
類人猿や原人、サルがすべて含まれている。
ただ、人がこれらの種に
霊長類と言う名前をつけたとき、
人間がすべての生物の上に君臨すると言う
おごった考えがなかっただろうか?
もし、この名前の作成時に、
ほかの考えがあったのなら
ぜひ知りたいと思う。
私には、自分たちこそが天辺である。
と言う言葉が見え隠れする。

霊長類
この言葉を自分自身につけ、
それを背負うとすれば、
本来、ほかの生物にはない責任と義務も背負うことになる。
もし、大会社の社長が
自分が会社で一番偉いんだから、
何をしても良い!
と言い出して
勝手な契約をしたり、勝手に社員の首を切ったりしたら、
早晩この会社は立ち行かなくなってしまうだろう。
一国の首相が、
この国で一番偉いのは自分なのだから
自分の思うとおりにする。
といって独裁政治をすれば
早晩この国は立ち行かなくなってしまうだろう。

このように、一番えらい!
と言うのであれば
自分よりしたにあるものや、
自分の管理下にあるものに対して
心配りをする。気をつける。
と言う義務も生じる。
そして、自分の判断で引き起こしたことに対して、
その結果を受け入れ、対処をする。
と言う義務も生じるのだ。
世の中に、
義務の伴わない権利などないのだ。
権利を振りかざす、力を振りか出すのであれば、
それに伴う義務もまた受け止めねばならない。

いまや、全世界の人間のほとんどが、
自分は霊長類であり、
地球上のすべての生命に君臨する存在である。
と思っていると思う。
では、その、霊長類としての義務は?
地球を、地球上の人間以外の生命体を
どのように気にかけているのだろう?

それは、どこかの偉い人が考えるべきことではない。
それは、私たち一人一人が
自分は霊長類であると言うのであれば、
それこそ、個人の
一人一人が考えるべきことである。

ほかの生命体も同じ命なのだから、
殺生はすべていけない。
などと言うつもりはまったくない!
人だけでなく、ほぼすべての生命体が、
何らかの形で命のやり取りをしているのだ。
植物の動物も同じ生命体である。
と言う観点からすれば、
殺生を完全に禁じてしまえば、
人間は食事を取ることすらできなくなる。
そんな意味で、
すべての命が平等だといっているのではない。
まして、そんな観点から、
霊長類と自称する人間に義務を言っているのではない、

真剣に、
自分の生活を見つめ、
ほかの生命体からもらっている恩恵、
食事を始め、この呼吸する空気すら、
他の生命体からの恩恵にあずかっているのだという
厳正なる事実を見つめ、
その中で、自分自身が何をできるのか?
自分自身がどう生きればいいのか?
と言うことを考えていってほしいと思うに過ぎない。
地球を守るのは、
偉い学者の先生方でもなければ、
政治家の先生方でもない。
渡したい個人一人ひとりなのだということ
そして、
その義務が私たちにはあるのだということ。
そのことにまっすぐに向き合って生きて生きたい。
と思うのである。

感謝は、形にしてはじめて通じる
生きとしいけるものに感謝するのであれば、
それをどう形にするかを考え始めてほしいと思う。
地球は、人間が支配する星ではない。
でも、人間が一番えらいと思っているのなら、
地球のこれからを真剣に考えるのは、
人間である私たち一人ひとりの、
孤独でm真剣な義務だと思う。

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ただ座るというと、
ほとんどの人が座禅を連想するらしい。
座禅とは、とても日本的な方法で、
なぜか、いまや世界中に広がっている。
いや、
禅という言葉が広がっているのか?
海外へ行くと、
座禅と禅はほとんど同じように考えられている。
座禅はもちろん禅の一部で
禅の修業の大きな部分を占めているが、
禅そのものではない。
まあ、今はそんなことは良い。

座禅が有名になったからか、
日本の文化に座禅が定着してきたのか
座禅を体験している人は増えてきた。
しかも、
薀蓄の書物もたくさん出ている。
そのなかに、
ほとんどの場合、
座禅は空を体験することだ
ということがある。
座禅をして空を体験したか?
そんなに簡単には物事は進まない。
空とは何か?
それを知らずして、空を体験したかどうかはわからない。
ほとんどの場合、空らしきもの、
空だと思われるもの、
空だという知識があるもの
を、
体験したというべきだろう。

座禅をするとき、
空になろうとなどする必要はない。
自分が知りもしないものになることなどできないからだ。
それはこっけいなことに過ぎない。
何かになろうとするのではなく、
総てを受けいれる。

体に感じる風や暑さだったり、
外になく鳥の声やせみの声だったり、
風や雨の音だったり、
時には走る車の音、遊ぶ子供たちの声
それらをただただ聞いている。
それらをただただ感じている。

批判することなく、
評価することなく、
対話することなく、
同化することなく、
考えることなく、
ただただ、そこにそれがあるだけ。

そういった状態で、
ただ、座って自分自身がそこにあることを許せば良い。
何か特別なことを感じる必要などないし、
何か特別なことを体験する必要もない。
空に成る必要などないし、
空を感じる必要もない。
空を感じようとすると、
そこに、思考という邪魔なものが生まれ、
空に成ろうとすると、
自分でない何かになろうとしてしまう。
だから、まずは、ただただ座り、
そこで、呼吸し、感じていれば良い。

座禅とはそうやってスタートするのだと思っている。
できれば、時間もあまり気にしないほうが良い。

座禅をするには細かな決まりがある。
服装だったり、
座り方だったり、
手の置き方、
歩き方、
座る時間、
目線の位置
一つ一つにとても細かな決まりがある。
作法と呼ぶ場合もあるが、
ねばならないの羅列であることに違いはない。
こんなにたくさんなことに気を配っていれば、
自分自身の中を見たり、
自分自身の中に気がつく隙間などなくなるだろう。

いろいろな決まりごとを守って
何かをするということは、大きな安心感となる。
しかし、その安心感は、
自分は、決められたとおりにした。
自分は間違ったことをしていない。
というところからくるものである。
それが自分自身に気づくための
座禅に必要なのだろうか?
だらしなくなれ。
といっているわけではないが、
自分らしくあるということは忘れないでほしい。
そして、自分自身であることを忘れないでほしいと思う。

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お寺の生活

最近、座禅が流行しているらしい。
以前、寺にいたときに、
一日体験というのを考案した。
内容は、丸一日24時間を、
お寺の中で、僧侶(尼僧)として過ごすと言うもの。
墨染めの衣を着用し、
時には作務衣を着て
丸24時間を僧侶(尼僧)として過ごす。

もともと、これを考案したのは、
2つの意味があった。

ひとつは、
お寺と言ういつもとはまったく違う環境の中に自分自身を置くことで
自分自身が陥っている断層をみつけ
そこから自分自身を解放する。
自分自身の環境や、
現在の心境について、
いつもは見えなかったものが見えてくるチャンスをつかむ
といったもの。

もうひとつは、
現実的な問題として、
お寺と言うもの自身は皆さんよくご存知だが、
その中で僧侶や尼僧がどのように生活しているのか
それを垣間見てもらおうと言うもの。
得度したい。
とか、
出家するにはどうしたらいいですか?
と言う問い合わせを受けているうちに、
問い合わせてくる方々が、
どうも、ある意味思い違いをしているのではないか?
と思ってきた。
というのは、
僧侶(尼僧)になれば、
修行本位の生活で、
修行が第一、しかも、お寺が養ってくれるもの。
と言う思い込みが多く見られたのだ。

以上の2点から、
出家する前の体験も必要だろう。
出家までしなくても、
自分自身の生き様を省みるチャンスを作りたい。
と、
1日出家体験のコースを考案した。
最初、たぶん、誘い合わせて、
複数での来訪があるだろうと思っていたのだが、
申し込みはほとんどが一人ずつだった。

ここではっとした
そうだ!
本当にに行き詰ったり、
真剣に自分を見返そうとするとき
連れしょんする友人は必要ない。
必要ないどころか、
邪魔にすらなってしまう。
だから、申し込んでくるとき、
人は一人だけで申し込んでくるのだ。
そこで、自分自身と向き合う時間をなるべく取れるように工夫した。
座禅の時間を何回かに分けて数回取り、
時間をかけて写経をし、
無心に五体投地を繰り返す。
たとえ、申し込みがただ一人だとしても、
寺の行事に差しさわりがない限り、
出来るだけ受け入れた。

1日体験と言うが、
これが実際のお寺の生活ではない。
でも、こうありたいと思う生活ではあった。

ほかのお寺に関しては知らないが、
私のいたところでは、
ここに修行より、
毎日の日課業務(法要や接客)のほうが忙しかった。
と言うより、
ほとんど個人の修業などする時間が無かった。
次官は見つければいい。
そのとおりなのである。
朝、仏さまにご飯を差し上げるのが5時
寺中の雨戸を開け、
お参りの方が敷地内に入れるように整える。
終了が6時
自分自身の食事を済ませる
朝のお勤めとして本殿や寺の数箇所で順にお経を上げるのが7時
所要時間約1時間
この後、実際に山門が開くのは
9時である。
この間に、座禅でも何でもしようと思えば時間は作れる。
実際、私自身はこの間に自室で1時間座っていた。
時には寝殿で単にすわる。
つまり、
修行はシステム化されていないのである。
修行しようと思えば出来るが、
しないで済まそうと思えば一切しなくてもかまわない。
美しい声で今日を読み上げることが出来、
荘厳な儀式を執り行う知識と技術力を磨く。
こちらのほうが大切なのだった。
少なくとも、私がいた寺はそうだった。

修行は自分自身で求め、積み上げていくもの。
そんな習慣が誰言うともなく出来上がっていった。
ちょっとの隙を見つけてお互いの知識を教えあい、
お互いの体験を話し合う。
人は、欲しいものに関しては本当に貪欲である。
そして、
与えられないものに関して、
あきらめ切れなければ、
どうにかして手に入れようと、
工夫したり努力したりすることに
結構力を入れることが出来る。
誰かが準備してくれたものより、
自分自身で工夫して手に入れたものの方が
鮮明で、深かった。

毎朝の座禅を通して、
何かが見えてきたわけではない。
劇的な何かが起きたわけではない。
しかし、自分自身の中に、
確たる空間が出来ていることに気づくことは出来た。

機会があればこの空間について話してみたいと思う。

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