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雨月

Author:雨月
カウンセリングやヒーリングを仕事として*年
最近では、スピリチュアリストと言う方が通りが良くなりました。
生きとし生けるものが大好きで、人が大好きで、何より寝ることが好き!
比叡の山中に庵(虹の風)を構えています。
疲れたら、一休みしにいらっしゃいませんか?
琵琶湖の風に吹かれ、鹿やいのししの声を聞き、鳥に目覚めを即される。そんな庵です。


最近の記事


最近のコメント


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続きを書こうとしたら
突然の雨と雷で停電が続出
今になってしまった。

もって生まれた運の大きさが同じでも
その運の持ち主によっては
目に見える結果として出てくるものが違うということ。

では、運がない部分については、どうしようもないのか?というと、
実はそうではない。
持っている運を上手に利用することで
それぞれをカバーできる。
たとえば、
パートナーとして、自分にかけている運を持っている人を選ぶという手もある。
一緒に仕事する方の持つ運を大切にする方法もある。
たとえば、一か八かの決定をしなくてはならないとき
ギャンブル運のある味方(あなたのことに好意を持っている方)に相談してその方の意見を聞いてみるというもの
こういった方法で、
自分自身にかけている運気を埋めていく。
そのときに気をつけなくてはならないのは
頼りすぎないことと、
感謝の気持ちを持つこと。

この方法をとれば、
金運、ギャンブル運がまったくない方が
大きな勝負をかけて勝つこともできれば、
会社や仕事を大きく伸ばすこともできる。
そうやって目的のお金や不動産を入手することも簡単にできるようになる。
もちろん、この方法はほかのことにも応用が利くのだ。
不動産運がないのに、大きな物件を入手したければ、
回り道だと思っても、
まずは商売なり何らかの仕事をして
それで得たお金を
不動産の取得に投入する。

もちろん、持っている運気の方向が希望と会えば、それに越したことはない。
むしろ、自分自身の間を信じて
まっすぐに努力してみるといいのだから。

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先日、面白い質問をいただいた。
「人間、生まれたときから運の量って決まっているんですか?」
「??運の量って?」
「金運があるとかいうでしょう?
 その、金運が、たとえば一生に2億円とか
 10億円とか分量が決まっているのか?
 ということですが・・・後略」

ふむ、運の量・・・・
面白いことに、
人は生まれもっていくらかの運を持っている。
その運のエネルギー値のようなものはほぼ同じだ。
ただ、その方向はそれぞれさまざま!
たとえば、金運が強い人があったとしよう
金運といっても、いくつも方向性がある。
たとえば、貯蓄運・遺産運・ギャンブル運・不動産運etc
案外、複数の飛びぬけた運を持っている人はいない。
この中のどれかがメインの強い運となるのだが、
それに関しても、
いささか面白い点がある。
もって生まれた運の大きさが同じでも
その運の持ち主によっては
目に見える結果として出てくるものが違うということ。

ギャンブル運というのは
結構特殊な運で
普通ギャンブル運というと
競輪、競馬、パチンコ、宝くじなどを連想すると思うが
実はギャンブルとはこれらだけではない。
宝くじがギャンブルであることでもわかるが
くじ引きの総てが入る。
つまり、商店街の福引などももちろん
年賀状の当たり年賀状などもそのうちである。
その上
一か八かの決断は
少なからずこのギャンブル運が関係しているのだ。
つまり、ギャンブル運がそこそこある方でなければ
経営の上においても
一か八かなどのような賭けはしないほうがいい。
きちんと物事を調査し
現実的な計画を立て
人にも計ったうえで
時間をかけて物事を決めていく。
このほうがよい結果が出やすくなる。

ちょっと急ぎの用があるので続きは後ほど

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前の続きだが、
このごろの子供は甘やかされている。
ということが目にも耳にもつく。

今の子供たちに聞きたい。
君たちは甘やかされていると思うか?
もし、甘やかされているとしたらどのくらい?

多分、子供たちはこういうだろう。
僕たち(私たち)はちっとも甘やかされていない。
僕たち(私たち)の思うようになんて、大人はちっともしてくれない。
甘やかされているというのなら、僕たち(私たち)の要求をもっと聞いてくれ。
というだろう。
われわれ大人は、
自分たちの子供のころと、今の子供たちのおかれている環境の違いに目を瞑って考える。
そして、今の子供たちは、と批判する。
子供のおかれている環境を、
自分が置かれていると思って考える。
つまり、本当の意味で、今の子供たちの目線を知るということは、
子供たちに、何が必要なのかということを、
私たちに教えてくれる。

決して、甘やかすわけでなく、
今の社会や子供の世界で生きていくうえで必要な種類の強さを
与えてあげられる方向性を考えることができるようになる
それが子供の目線で考えるということだ。

私は、常々、親は子供にとって理不尽な存在でいい。
と言っている。
子供にとって、あまりにも家が心地よいところになってしまうと
そこから出たくなって当たり前である。
適度に心地よくて、適度の居心地が悪い。
この加減がまあ、難しいのではあるが
要は、信頼関係のある居心地の悪さ。
ともいうべきものが家庭には不可欠なのだと思う。
親は、子供にとってはどうしようもない権威で、
そして、完全に排除したくはない信頼と愛情のある存在で、
乗り越えたい大きな壁である。
そして、そうあろうとし続ける限り、
家族の形は決して崩れないのだろう

数年前であるが、
こういった話があった。
時は阪神淡路大震災の2年後。
親御さんは、震災のおかげで住む家をなくし
新しいマンションを購入した。
前の家のローンも多額に残っていたため
2重ローンを抱えた家族にとって
家のためのローンは大変大きな負担となったため
家族はいろいろなものを我慢しなくてはならなくなった。
そういった生活の中、
子供には大変な思いをさせたくない。
と、両親は、子供の教育には気を配り続けていたが
経済的な問題は回避しようもなく、
高校を受験するに際して
多額に授業料の必要な私立高校に入れてあげられなくなっていた。
常日頃両親は子供に対して、
こういった理由から、公立高校にしか行かせてあげられない。
と話してきたが、
いざ、受験となったとき
子供は、どうしても自分の行きたい私立高校しか受けない。
そこにいけないんだったら家出する。
と言い始めた。

困り果てた母親が私のところに相談にみえた。
私が子供を甘やかしてしまったのでしょうか?
特に甘やかした覚えはないのに、
何でこんな子になってしまったのでしょう?
と母親は泣いていた。

話をよく聞いてみると
親御さんの経済事情について
子供には実感がなかったのだ。
子供に不自由な思いをできるだけさせたくないと考えた両親は
食費を切り詰めても、
子供のための出費は切り詰めなかった。
以前と同じ塾に通い、
以前と同じ小遣いをもらっていた。
両親が、下着の一枚もかわずに我慢していることなど、
この子はまったく知らなかったのだ。
両親は、家庭がどれだけの借金を抱えているかを話していたと言うが、
数字だけでは、子供にそれを現実として受け止めることは難しかった。
自分はこれまでと同じ経済環境で生活しているため
親が何と切り詰めているかなど
まったく知らなかったのだ。
ここで、この事実に子供に気がつけ!
と言っても無駄である。
こういったことに気がつかないからこそ子供なのだから、
子供にもわかるように表現する眼気だった。
ローンが大変になれば、
子供の塾のお金も減らすべきだし
子供の小遣いにつき1万円もあげる必要はない。
親も子も、同じように我慢をするべきだったのだ。

あわてて説明したところで、
子供にとっては緒他の事情を押し付けているとしか写らなくなってしまった。
このこと話をしたが、
行きたい高校に行かせてもらえないなんて
親は私を大切に思っていないんだ。
と言う返事が返ってきた。
友達は行くのに、何で私が行けないの?
かっこ悪いじゃない。
ということだ。
これを、震災直後なら、受け入れられたことだったと思う。
そのときから、家族がひとつになっていれば
いまさら親があわてることもなく
子ども自身がそれを考えただろう。

子供には、子供の目線と判断がある。
それを考え、
子ども自身が気がつくように整えるのも
周囲の大人の役目だろう。
そして、このことを考えずに、
大人の目線で子供を大切にする。
それが甘やかしになってしまう。
そのことが一番怖い。

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最近、登校拒否の子供を持つ親御さんからのご相談が多い。
それも、この数年、激増し、減る傾向は見えない。
多くの親御さんが、
「どうしてかわからない」
「子供に聞いていいかどうかわからない」
「何が原因で学校に行かないんでしょう」
「うちの子はいじめられているんでしょうか?」
とおっしゃる。
皆さん一様に、子供さんのことを大切に思っている。
大切に思っているからこそ、
どうしていいかわからなくなっているのだ。
「どうすれば学校に行けるようになるんでしょう?」
ならまだいい。
「どうしたら学校に行ってくれるんでしょう?」
と、ここまで行きつめていることもある。
同じように聞こえるかもしれないが、
この二つの間には天と地の違いほどの違いがある。

行けるようになる

行ってくれる


主体がまったく逆なのだ。
子供が主体となることに問題があるというのではない。
まあ、それも問題なのではあるが、
親としての意識のある場所の問題なのである。
いや、親としてというより、大人として。というべきだろう。
昨今、犯罪の低年齢化が歌われているが、
それに伴い、(どちらが卵かめん鳥かは不明だが)
各種のカウンセリングの書物や、
親に対するアドバイスの文章などに、
「子供の立場にたって考えましょう」
「子供の目線で物事を見ましょう」
「学校に行きたくないなら、休ませましょう」
というのが目立つようになった。

それはそれでいい。
だが、
子供の立場に立つ というのは、判断の頭の中身まで子供になることではないのです。
子供が、今、学校や友達の中で、
どのような立場にあり、どのように行動しているかを真剣に考えるということなのです。
子供の目線でというのは、子供さんがまだ小さい場合は、
実際、現実の目の高さを子供の高さにあわせて周囲を見てみることも含め、
ものごとが、子供の目にはどう映っているのか。を、観察したり、考えるということですし、
このどちらもが、子供の考えや、思考を中心におくことではないのです。
そうしなくても、理解することは十分にできます。
理解したうえで、大人として、親としてどのように対応していくべきなのかを考えることが大切なのです。
理解したうえで、親が、より、広い、より体験に満ちた考えや行動を示すこと。
これが真剣に子供に対応することだと思います。
もし、真剣に渡来してみても、理解できない、判らないと言うのであれば、それはそれでいいのだと思います。
真剣に取り組むうちに、
何か少しは見えてくるものがあるはず。
それを大切に子供さんと接すると、
少し包み得てくるものがある。

学校に行きたくないといっているから休ませる。
学校に行きたいと思っている子供がどれだけいるのだろう?
行きたいときに行けて、行きたくないときには行かなくていいのなら、もちろん、それに越したことはない。
でも、
それでいいのだろうか?
学校はもちろん、いやなところだが、
集団生活や社会性を学ぶ場でもある。
自分の考えとは違った考えの人間というものを知る機会でもある。
緊急避難としてのお休みの後でいいから、
真剣に対応する必要があることでもある。

つづく

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オーラを知覚する

スピリチュアルとされる世界で、
最近は、オーラが大流行である。
で、どれだけの方がオーラを見たことがあるのだろう。
オーラが見えるという方はたくさんいる。
でも、それぞれいうことが違う。
と、思ったことはありませんか?
そうなんです。
かなりの違いがそれぞれの説にあり、
色、輝き、そして、それぞれの持つ意味にまで違いがある。
先日、多くの自称スピリチュアリストが出席する番組を見た。
そこでも、オーラについてはそれぞれの意見が違っていた。
一人の人間のオーラを見るのに、
それはそれはさまざまな色を表現するし、
その判断も違うものがある。
たとえば、オレンジと赤ぐらいの違いなら、
まだまだ近いといえるのだが、
正反対の色まで出てくる状態。
これはどうしてだろう?

もともと、オーラというのは、
色というよりも、その人の精神エネルギーや生体エネルギーの強さをさして使う言葉だった。
あの人からはお金のオーラが出ている。などというように表現したものだ。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
オーラ (aura) は、物体(特に人間)が放出する雰囲気、霊気などのこと。「息」を意味するギリシア語「アウラー (αύρα / aura)」に由来し、英語としてはやや文語的な表現である。
オカルトやニューエイジでは、オーラは、生命活動や精神活動をつかさどる超自然的なエネルギーである生体エネルギーが、体から放出され、体を取り巻いたものだとされるが、科学的根拠はない。(後略)


となっている。
いわゆる、生体エネルギーの総称と捕らえてもいいのかもしれない。
よく、天使や神々、仏様の後ろに、
後光が差している様子を見かけるが、
これもオーラを表現したものだろう。

では、なぜこれほどまでに見る人によって色に違いが出るのだろう。
それは、見ている人自身のオーラがフィルターの役割をしていることが原因のひとつである。
学生時代、暗記物にブルーシートらレッドシートを使った方は多いと思うが、
赤のインクで文字を書いて、
その上に透明な赤のフィルムや下敷きのようなものを乗せると、
赤い文字が消えて、
そこが空白になっているかの状態になる。
これを利用して、暗記用のシートなどを作った。
これは、赤いシートを通る段階で、
文字の赤はシートに阻まれ、
人間の目には情報として届かない。
まるでそこに文字がないかのように認識されるのである。

これと同じで、
見る人のオーラが赤が強いと、
見られる人のオーラを。赤のシートを通して見ている状態になる。

今、オーラヒーリングの講座を開いているが、
当講座では、
まずは自分のオーラを認識することから始まる。
それは、上記のような事情からだ。
自分自身がどのようなオーラを持っているか、
それがわからない状態では、
自分以外の人のオーラの認識など、
できなくて当たり前なのだと思う。
まずは、自分自身のオーラの色、輝き、深み、変化
これらを知覚できるようになってこそ、
人のオーラを見ることも、ヒーリングすることもできる。

実は、人には3種類のオーラがある。
3種類のどれかに所属しているというのではなく、
3つのオーラを持っているのだ。
これについてはまた後日記載することにします。

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人間は人間に生まれ変わるし、
犬は犬に、
猫は猫に生まれ変わる。
人間とほかの動物では、魂の形が違うので、
人間が人間以外の動物に生まれ変わるということはないのだ。
そして、その逆もまたしかり。

多くの書籍やスピリチュアリストが
過去世について述べているが、
結構多くの記述が、
動物に生まれ変わる。
とか、
過去世が動物だとかいうものである。
そして、少なからずそれをよくないことだと表現している。
前世がサルだったとしよう。
それは笑いと同情を呼ぶかもしれないが、
それを誇りに思う人はなかなかいないだろう。

ちょっと冷静になって考えてみよう。
動物に生まれることが恥なのだろうか?
万が一(これは私の説ではないが)動物に生まれた後、
人間に生まれ変わるとすると、
それはすばらしいことなのだろうか?
人間は万物の霊長?
生きとし生けるものの頂点に立つ?
人間は人間であるだけでえらい?
なんという思い上がりだろう!

これは多分に宗教の影響が大きい。
その昔、日本の権力者が、
自分たちの支配を確立させ、
人民を支配しながらも、その人民に
自分たちもまた、強い場所にいるという幻想を抱かせるために、
身分差別というものを作り、
それを支配のための道具としたように、
宗教は、
人間と人間以外の動物の間に
あたかも、霊的な上下があるかのように
示唆したり、表現することによって
人間はすばらしい!
人間であること、人間に生まれることは、
それだけで、特別な存在であるというように錯覚させ、
輪廻転生において、次も人間に生まれることができるように
精神性や、信仰心を固める役に立てたのである。

これが永きに渡って、
社会にまで浸透した結果、
今のように、人間は、人間であるだけで、特別な存在である。
といった考えが、浸透してしまった。

もし、人間が犬に生まれ変わり、
蝶がまた人間に生まれ変わるのだとしたら、
草木は人間に生まれ変わるのだろうか?
人間は草木に生まれ変わるのだろうか?
人間も、犬も、猫も、蝶も、ゴキブリも、桜も、バラも、ひまわりも、すべて生きている!
生きているという部分では、みんな同じなのだ。
では、人を人たらしめているものは?
犬を犬として形作っているものは?
桜を桜として存在させているものは?
それは肉体の形だけではない。
肉体の形に応じた魂が入るのだ。
つまり、肉体と魂が両方調和して初めて
人間!犬!桜!という区別が生まれるのだ。

人間の肉体には人間の魂。
犬の肉体には犬の魂。
桜の身体には桜の魂。
それぞれに魂の形も違う。
それは、個性というようなものではなく、
魂そのものの持つ特性や形状の問題なのである。

だから、犬は人間に生まれ変わることはできないし、
人間は桜に生まれ変わることはできない。
どんなに醜く、つらくとも、
人間は、人間に生まれかわらぜるをえないのだ。

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人の魂と動物の魂

昨今、オーラとか、前世、生まれ変わりが大変はやっている
流行っているということは、
当然、興味を持つ人が多いということであり、
喫茶店でのコーヒー話にも、
そういった話題が振られることが多い。
その中の典型的な話題に、

『自分の前世は何だったのか?』

というのがある。
『何だったか?』であり、
『誰だったか?』ではない!

もう何年前になるだろう。
ワンダーランドとか、マヤという名前の雑誌があった。
これらの雑誌の最後のころ、
読者欄や、お友達募集のコーナーには
前世での戦友探しが大流行だった。
『アトランティス時代にラアルという名前の戦士だった人を探しています』
などというものだ。
一時は、こんな書き込みばかりで、
普通のお友達募集など、探さないとないほどだったことを思い出した。
現在、アニメーションや漫画の定着により、
こういった雑誌への感情移入は少なくなったように思うが、
その代わりのように、
前世に人間以外が登場するようになった。

たとえば、
前世が犬や猫はともかく、ハムスターやインコなど、
ちょっと首を傾げたくなるようなものも含めると、
かなりのパターンがある。
生まれ変わりというのは、そんなにバラエティーに富んだものではない。
人間は人間に生まれ変わるし、
犬は犬に、
猫は猫に生まれ変わる。
人間とほかの動物では、魂の形が違うので、
人間が人間以外の動物に生まれ変わるということはないのだ。
そして、その逆もまた叱り。

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先日、スプーン曲げの話をしたが、
スプーンのように金属の塊ではなく、
心もまた、なかなかに硬い

自分自身の価値観、
これまでにやってきて慣れた方法
子供のころから信じてきたこと
社会の通念というもの

常識や、通念を排除しろというのではないが、
自分が人として、どれほどそれらに縛られ、こだわっているか。
これを知るのは決して無駄なことではない。
現に、日本だけを見てみても、
平安時代の常識や社会通念と、江戸時代のそれは根本的に違うし、
それらと現代のそれもまた大きく違う。
もし、魂というものに、生きるための規則のようなものがあるとpすると、
これらの常識や通念というものは果たして何の役割をするのだろう?
まして、現代において、
海外で暮らしたことのある方は骨身にしみていると思うが、
国によってもその違いは大きい。
生活している国が違う。
生きている時代が違う。
そんなことで変るとてももろく、薄べったい物に、
私たちはしがみついている。

金属のスプーンを曲げる前に、
金属と同じくらい、いや、もっと硬くなった自分自身というものを見つけたい。
自分が今、何を信じ、どこに行こうとしているのか。
生きるということは自分にとって何なのか。
魂にとって何が真実か。
心にとって何が大切なのか。
人の言う言葉ではなく、
どこかで聞いた解説ではなく、
自分自身の心と言葉でそれを見ることが大切だろう。

繰り返して言うが、
今の社会に対する批判や、反逆をせよ!といっているのではない!
私たちがいきとしいけるものとして、
何を中心におくのか?ということだ。
もっともっと柔軟に、
もっともっとフレキシブルに。

山に登る道はたくさんある。
どの道を登っても、山頂にたどり着く。

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禁煙と禁酒

先日、禁煙ができるということをちょっと記載したが、
そうすると、
禁酒はできるのか?
という質問が来た。
もちろん!禁酒だってできる。
喫煙の習慣と飲酒の習慣は、同じものではない。
タバコとお酒という違い以上に、
根本的に違う部分を持っているのだ。
タバコもお酒も、精神の鎮静効果があるが、
その大きな違いは、
肉体への影響の大きさの違いにある。

喫煙習慣が、肺がんを誘発しやすいということはあるとはいえ、
タバコそのものが生きるうえでの大きな妨げになることはない。
しかし、お酒は違う。
飲酒の度を過ごすと、肝臓を傷めることはもちろんだが、
アルコール依存症は、実際に命をとられることもある。
その上、
人間の思考力を麻痺させる。

ただ、その、思考を麻痺させる。
ということそのものが、飲酒の最大の効用でもあることも確かだ。

飲酒によって、多くの人は思考のたがをはずす。
はずしすぎて、意識がなくなることもあるが、
多くのストレスが、
お酒を飲んでいる間、
お酒の影響が肉体にある間は
忘れていることができる。

喫煙が、場合によっては思考を明晰にしたり、
鎮静効果によって、理論的に物事を考える助けになったりするのに対して、
飲酒は今ある問題から基本的に逃走させてくれるのである。
ただ、問題は、逃げても、問題は解決しないということだ。
酔いがさめたとき、
翌日目が覚めたとき、
それは確実に戻ってくる。
問題は単にくさいものにふたをしたかのように、
問題を閉じ込める。
そして、そのふたが開いたとき、問題はそのままそこに存在しているのだ。

古来より、
タバコとお酒は、シャーマンにとって大切な媒体だった。
神や、精霊、大いなるものとの交流に欠かせない。
それはとても大切なアイテムだったのである。
しかし、これらは貴重なものであり、
現代のようにいつでも、いくらでも手に入るというものではなかった。
だから、現代のような問題は問題ですらなかった。

最初に戻ろう。
飲酒の習慣をやめることができるか?

答えは、 できる。

ずっと書いてきたように、
人は大変ストレスには弱い。
多分、多くの生物の中でも、ストレスにこれほど弱い生物はなかなかいないのではないか?と思われるほどに弱い。
このストレスからの逃避としての飲酒は、
この事実を受け入れることで必要がなくなるのだ。
もちろん、ストレスがなくなり、
飲酒の必要がなくなるのが理想ではあるが、
人間、そんなにうまくはことが運ばない。
ストレスがなくなることが主眼なのではなく、
ストレスがあってもいい。
自分にこんなストレスがあると知ること。
そして、
飲酒によってストレスがなくなるわけでないことを、
本当の意味で知ることができれば、
自然に飲酒の必要がなくなる。

そのためには、自分自身を認める。
これが第一歩となる。

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心と体の睡眠

睡眠つながりでもうひとつついでに書いておこうと思う。
ちょっと読みにくい文章になるかもしれないが、
この機会に触れておこうかと思う。

寝るということ
というか、人の必要な睡眠時間は
個人個人によって違う。
その昔、
フランス第一帝政の皇帝ナポレオン・ボナパルトは
1日に3時間しか寝なかったという伝説があり、
それをもじってか、受験のころに、
四当五落という言葉を散々聴かされた。
つまり、4時間の睡眠でがんばって勉強しているものは合格するが、
5時間以上寝ているようだと不合格になるという意味だ。
今の受験生は聞いたことがあるだろうか?

まあ、そんなことはどうでもいい。
ここで言いたいのは、
ナポレオンは本当は1日に3時間しかねていなかったわけではないということだ。
このことは、史実をちょっと調べればわかるが、
このように、伝説となっていることの中に、本当のことは少ない。

もちろん、人間の睡眠についても、同じようなことがいえる。
人に睡眠は必要か?
もちろん、人間に睡眠は必要です。
どころが、どれだけ必要か?ということになると、
これはまた複雑の様相を呈してくる。
通常は、6から8時間の睡眠が必要だといわれているが、
10時間寝ないと、寝た気がしないと言う人もいれば、
4時間も寝れば十分に回復する。
というつわものもいる。
つまり、人間は、これだけ寝なければだめだ!
という決まったものはないということなのである。

もちろん、人は眠らなくてはならない。
人間に必要な睡眠・・・これは人間だけではないが、
生命活動の健全な維持に必要な睡眠時間というのは、
実は個人差が大変大きい。
だから、何時間寝なければならない。
と思うのもまた、大きな思い込みになる。

ところが、平均的であること、人と同じであることがとても大切な日本人は、
睡眠時間すら、みんなと同じであることがとても大切なのか、
睡眠時間が人と同じでないというだけで、
体のどこにもおかしいところがなくても、
無理やりにでも寝ようとする。

睡眠というのは、肉体が疲れたとき、
回復に必要な休養であり、
精神の疲れを回復するために
大変大切な休養でもあるわけです。
この睡眠をまったくとらなくなると、
人の体ばかりではなく、
脳も、神経も疲れから回復することができなくなり、
この状態が続くと、回復不可能なところまで行くことがある。
ただ、人間は良くしたもので、
本当に必要な睡眠はとるようになっている。
不眠症と思っている方と生活すると、
昼間のうちに、うとうとと眠っていることが多い。
つまり、自分では気がつかないうちに、
細切れに睡眠をとっているのだ。
このように、無自覚に、睡眠をとっていることも多くあるので、
実際に不眠である。ということ以外に、
なんらかの不調がなければ、
時間を得した。
位に受け止めるのも、ストレスを少なくする助けになると思う。
もちろん、
何らかの不調を伴う場合は、
きちんと原因を究明し、
心と体の健康を取り戻すことは大切なことだ。

先日述べたように、
因縁や、前世のことが原因で
睡眠障害に陥っていたり、
肉体の不調が原因で、深く眠ることができなくなり、
睡眠障害になっていることも多いので、
自分自身の睡眠のリズムをつかむ努力というのは、
大変大切だし、役に立つことだと思う。

ああ、言いたいことの半ばですが、
今日はここで筆をおくことにします。

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前世占い

占いがブームになって久しいが、
その間に、本当にさまざまな占いが考案された。
一時期動物占いをはじめとして、
聞いたことのないような名前の占い本が
書店の棚を飾っていたことを思い出す。
今日、久しぶりにマンモス書店へ行った。
そこの占いコーナーには、
風水、タロット、四柱推命、姓名判断、易学、西洋占星術と
やはりあらゆる占い本が並んでいたが、
さすがに、アニマル占いなどの色物占い本はかなり少数になっていた。
その中に、
前世占いなるものを見つけた。
前世に、うらない?
どうやって前世を占う?
そもそも、前世って占うものなのか?
ぱらぱらと見たところによると、
生年月日から前世を占うらしい。

はい?
今世の生年月日から、前世がわかるのか?
どうやって?
つまり、ということは、
前世の職業や生き方によって今世何年何月何日に生まれるか決まるのか?
いくらなんでも無謀な発想だろう!
でも、それがまかり通るというのも不思議な話だ。

もし、こんな形で本当に前世がわかるのなら、
私は頭を下げて習いに行く。
なぜなら、簡単で楽だから。
前世を知りたい。と訪れる方は多い。
その一人一人に、時間をかけて対応してきた。
なぜなら、私から見れば、前世はそんな法則などなく、
一人一人ユニークなものなのだから。
それを一つ一つ見て行くには、それなりの時間と手間がかかって当たり前なのだ。
そう思ってきた。
多分、これからも、私は一人一人に時間をかけて対応していくんだろうと思う。

まあ、前世というのか、基本的に、みんな忘れているので、
あまり真剣でない、遊びと考えられるとすれば、
遊びの一環としては、
それも面白いのかもしれない。
しかし、中には、かなりまじめに悩んでいる方もあるはずだ。
四柱推命や西洋占星術などのように、
長い年月を経て昇華し、形作られてきたものはともかくとして、
それの応用かもしれないが、
形のないものに対して、
アバウトな表現は誤解を招く元となることが恐ろしい。
そんなことを思いながら書店を歩いていると、
守護霊占いなるものにまでであった。
守護霊が占いでわかる?
そんなに単純なものであれば、
誰も悩んだり、苦労したりしていないのではないか?
人生がそんなに単純に割り切れ、
いくつかのパターンに当てはめられるのだとしたら、
なんと面白みのない人生なのだろう。

人生は、複雑で、一人一人のものである。
一人一人、違うところがあるからこそ、
私たちは個という自分を持って生きているし、
人生を悩んだり、苦しんだり、笑ったりできるのだ。

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睡眠障害と前世

今日は、睡眠障害でもレアなケースのことを書いてみようと思う。
睡眠障害の中には、前世が関係している場合がある。
この場合、睡眠障害に陥る前に、同じ夢を長期間見ていた。
スピリチュアリストによっては、
夢に多大な意味を持たせることがあるが、
ほとんどの夢は、無害なものである。
毎日の感情やストレス、希望や喜び、悲しみ・・・そういったものが、夢となって消化されていく。
人は、毎晩、数多くの夢を見る。
その中でも、ほんのわずか、たいていの場合
、一つか二つが記憶に残ることがあるのだが、
この記憶に残るということにも、
実はそんなに大きな意味はなく、
単純に、その会の睡眠において、最後に見た夢であるというに過ぎない。
ところが、たまに、同じ夢を続けてみることがある。
必ずそうというわけではないが、
これには大きく3つのパターンがある。

1つ目は、
ストレスが特定の人間、もしくは、場所、事象によって引き起こされ、
明確な原因があり、
しかも、それを解消する方法がない場合。

2つ目は、
家族や友人など、親密な関係にある人間に対して、
何か伝えたいことがあるのに、どうしてもうまくいかない場合、
もしくは、その相手に、感情移入が激しい場合。

3つ目は、実はこれが大切なのだが、
前世の記憶がよみがえったり、
現在起きている事象が、前世の何かの縁によって引き起こされたものである場合。

上記の3つのどれにも当てはまらないものもあるが、
多くの場合、上記の3つのどれかであると言っても過言では無いように思われる。
この場合、続けて何日も同じ夢を見続けるか、
定期的に、同じ夢を見、しかもその見る間隔がだんだん近くなる。
どちらの場合も、日を重ねるとともに、
記憶なら薄れるはずであるが、
逆に、夢はだんだんと鮮明になる傾向がある。
そして、折る日、気がつくと、
睡眠障害が発生している。

この場合は、前世をはっきりと思い出し、
そこで起きた事に対する自分自身の対応なり、
そこで生じた感情を自覚する。
その上で、過去見や前世療法を通して前世で生じたトラウマやストレスを解消する。
それらのことを通して、今、現在を再認識し、
今、起きていることと前世での出来事の何が問題として共通点があるのかを無意識層から意識層に呼び込む。

と、言葉で書くとなにやら難しげだが、
実際にやってみると、
意外と単純で、そして、効果的なのだ。
ただ、気をつけなくてはならないのは、
すべてに対して、あまりにも特別!な何か!を求めようとしない。
ということだ。
人の営みというものは、
実はそれほど変わったものではない。
たとえ、地位を得、名を成そうとも、
個人としての自分自身というものの中身は、
そんなに変化するわけではないのだ。

だからこそ、生まれ変わっても同じようなところで躓くし、
同じようなところでストレスを感じるのだ。

こういった睡眠障害については、
前世鑑定や、前世療法、過去見などは有効で、
そして、解決や完治への早道となる。

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睡眠障害

最近、睡眠障害という病名を良く聞く。
かなりの若い方でも、この病名を持っていることがある。
私のところにも、
この系統のご相談が結構ある。
初めて聞いたときは、
?????
となったものだったが、
最近では、ああ、不眠症ですね。
と言う事ができるようになった。

不眠症と睡眠障害は本当は少しだけ違うらしいが、
睡眠障害のほとんどは不眠症である。
それにしても、
かなりの若い方まで、睡眠障害を持っていることがある。
先日は、ついに、小学生だった。
小学生の睡眠障害?
しかも、話を聞いてみると、不眠症に間違いない。
健康な人の場合、
不眠症になるのは、原因はひとつに近い。
何かというと、不安からくる神経症の一種なのである。
その不安の原因を、
人は家族には話せないという場合もあれば、
自分自身が、それほどの不安を抱えていると思っていない場合もある。

私の経験によると、不眠症の持つ不安の多くは、
現実生活への適応障害である。
もっとも、現代の現実生活は、
どんなに健康な人にとっても、
住みやすい!
 居心地がいい!
というのには程遠いのは間違いがない。
適応障害になっても当たり前と言うものだ。

本来、地球の適応人口は、
地球全体で400万人といわれているのに、
いまや、400億人に近い人間がこの地球上にひしめいているのだ。
なんと、適応人口の1万倍。
生きるだけでもストレスを感じてもおかしくない。
そんなストレスは、自分自身の自覚がないままに思ったよりも貯まっていく。
それは、ほんの小さなきっかけで、
火山が噴火するように、噴出してくる。
普通に考えれば、何のことはないきっかけで、
それは起こる。
まずはそのきっかけとなったとこを突き止めるのが大切だが、
ほとんどの場合、
それほど些細なことでストレスを感じる自分というものに、
問題をかんじてしまう場合があり、
なかなかに問題が複雑化する傾向にある。
相談相手がいない。
というのも、大きな問題である。
些細だと思えること、
たいしたことがない。と思うようなことは、
むしろ、ちょっとした茶飲み話にもしやすいことなのだが、
そんな些細なことですら、話せる相手がいない。
と感じているのだ。

家族、兄弟、幼馴染、同級生、同僚
さまざまな形の人間関係の中で、
まるで砂漠に生きているように
飢え、乾いているのが現代の日本だ。

それ以外にも、睡眠障害の大きな原因となるものがある。
しかし、あまりにも長くなりそうなので、この続きは次回にすることにしようと思う。

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慣れという凶器

今日、たまたまテレビを見ていたら、
なかなかに面白いことをしていた。
と言っても、番組の意図とは違った所で、
私の注意を引いたものがあった。

昔飲んだことのある飲み物がもう一度飲みたい。
と言うので、その飲み物を探す。
と言う内容だったのだ。
これでどの番組かわかった方も居るかもしれないけど、
問題はその番組自身ではない。

問題の飲み物を探し当て、結局、結構な人数がそれを口にしたのであるが、
ほとんどの人が、「まずい」と言っている中に、
美味い!
と言った方が居たのだ。
慣れると癖になる。
と言うコメントもあった。

そう、この、慣れるというのが私の引っかかった所だ。
人間というのは、多くのことに慣れてしまう。
私自身、子供のころはコカコーラが飲めなかった。
薬そっくりな味に思えて、
どうしても咽喉を通らなかったのだ。
それが、今では、頻繁でないとはいえ、コカコーラを買ってでも飲むことがある。
しかも、それをおいしいと感じている。
味覚の変動?
それもあるかもしれないが、
味覚の変動そのものも、味と言うものに対する慣れだと思う。

そうして、多くのことに慣れてしまったら、次は、
それを当たり前だと感じ始める。
そして、それに常識と言う言葉を当てはめるのだ。
味覚ばかりではない。
道徳や、社会と言うもののあり方にまで、それは適応される。
今、われわれは、死んだらお葬式を挙げ、
火葬場で骨になるまで焼き、
墓地に葬られることを当たり前だと考えている。

当たり前じゃない!

こんな死の儀式は世界中にもそうそうはない。
散骨や土葬が良いと言っているのではない。
今、私たちがあって当たり前、
行って当たり前、
と考えていることの多くが、
単なる思い込みであったり、周囲や先達からの刷り込みだったりするのだ。と言うことを言っているのである。

そして、その思い込みや周囲への順応と言う名前の慣れは、
とても小さな、それこそ私たちがまだ自意識を持たないころから始まる。
複雑に思考することを覚えてしまったかわりに、
私たちは慣れるという凶器をも手にしたのかもしれない。
ついつい慣れてしまう前に、
しっかりと自分の目で見、
自分の心に聞くことを忘れないでおきたい。

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超能力と呼ばれるものがたくさんある。
読心力・テレパシー・念動力・念視力・・・
その中のひとつとして、
大変よく取り上げられるものに、
念動力に分類されるのだと思うが、
スプーン曲げと言うのがある。
ユリゲラーで、有名になりすぎるほど有名になった
スプーン曲げであるが、
まぁ、手品としてのスプーン曲げは別として、
実際に曲がるものである。
私の周りにも、曲げることのできる連中がたくさん居て、
その中でも、とてつもなく簡単に曲げることができるのが居た。
なにせ、この家には、まともなスプーンやフォークがないのだ。
訪問客からは、
曲げるんだったら、元に戻しとけ!
曲がったスプーンなんて飯が食いにくいじゃないか!
と言う声が上がるくらいだった。
あまりにも当たり前なので、
誰もそれを取り立てないようなことだったのだが、
ある日、
なぜスプーンは曲がるのか?
と言う話になった。
スプーンを飴細工のように曲げながら、彼の言うには、
これが硬いと思うから曲がらないんだ。
スプーンだけでない、金属を柔らかいと思えば曲がる。
と言う話になったとき、
じゃあ、鉄パイプは曲がるのか?
と言う話になり、彼はそれもやすやすと曲げて見せた。
その後で、木材を曲げられるか?
と言うことに話題は移り、
彼も、挑戦したのだが、木材を曲げることはできなかった。

もし、常識的な概念の思い込みだけが問題で金属が曲がったり曲がらなかったりするのであれば、
木材だって曲がるはずなのである。
なぜなら、金属が柔らかい。
と本心から思うことができるのであれば、
同じことの応用で、木もまた柔らかいと思うことができるはずなのだ。
でも、木材を曲げることはできなかった。
そして、今に至っても、木材を曲げたと言う話は聞かない。
同じように、石製品や陶器を曲げたと言う話も聞かない。

なぜだろう?
ここには記憶の問題が存在する。
木材は、木として生きていたときの記憶が細胞の一つ一つに刻まれているのだ。
石や陶器は、土からできている。その自然にある素材の持つ記憶は、それ自身の形を確定する。
だから、木材と言われようと、木は木であり、
たとえ、それが如何に加工されようとも、木であることをやめては居ない。
自分が木であることを知っているのだ。
そして、石や陶器も、自分自身が石であり、土であることを知っていて、それをやめてはいないのである。
人が、魂と言う形になっても、人であることをやめるわけでないように
そして、人であった肉体は腐敗しようが、焼いて灰になろうが、人と言う存在であったことを忘れはしない。

では、なぜ金属は変化するのだろう?
金属は、その記憶が薄いのだ。
精錬される過程で、純粋に金属の分子だけが抽出される。
この時点で、自分が岩であったことの記憶がほとんどなくなる。
なぜなら、岩石の中に溶け込み、その一部となっていてこその金属だから。
これが宝石とかの結晶の場合はまた違う。
結晶は生育する過程において、自分が、何の結晶であるかを認識する。
どんなに小さくなっても、ダイアモンドはダイアモンドだし、水晶は水腫なのだ。
ところが、金属は、ちょっと違う。
生成される過程において、ステンレスは、ステンレスであると言う自覚は生まれない。
なぜなら、それは金属が自分自身で決めた形ではないからだ。
強制された形と結びつきと言うのは、その範疇に入らない。
とても意識としては弱く、簡単に塗り替えられるほどのものなのである。
それでも、自分自身が金属の分子であると言うことまでは変わらない。
どんなに曲がったとしても、
どんなに形を変えたとしても、
金属は金属のままであり、自分が金属であると言う意識までは変わらない。
その形状としてのあり方、金属同士の結びつき方が変わったに過ぎない。
そして、これが、スプーンは曲げられるが、箸は曲げられない。
と言うことの根本的な真実なのだ。

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祈りは力である

祈りは力である。

この言葉は、スピリチュアルに関心のある方なら、一度は聞いたことがあるに違いない。
しかし、多分に宗教的なニュアンスが強い感じがしたことと思う。
真剣に祈れば、チャンスが来るとか、
真剣に祈れば、神仏がすべてをみそなわし、何かを与えてくださる。とか、
祈ることによって大いなる力や自分自身の内なる高次の存在が力を貸してくれる。とか、
そういったことが多いように思う。
つまり、すべては自分自身ではないより大きな力の存在をもって
祈りに答えてくれるとする所があるのだ。

しかし、そうだろうか?
私は、とある宗教の敬虔なる信者で、とても真剣に祈る方を存じ上げている。
しかし、彼女の祈りは、聞き届けられていない。
そして、彼女は、自分自身の祈りの力がまだまだ足りないのだと言う。
いささかの違いはあるとしても、
彼女のような方を、数多く知っている。

しまいに、祈りが聞き届けられないのは、それが今世自分に課せられたカルマなのだと言う場合もある。
神から与えられた試練だと言う場合もある。
自分が前世でしたことの返しなのだと言う場合もある。
先祖の因縁で邪魔をされているのだと言う場合もある。

こういったことがまったくないと言うわけではないが、
それらの多くが間違った捕らえ方をされているように思う。
こういった諦観に達するには、
それこそ、血のにじむ思いで努力を重ねたり、
まず、自分自身でどうにかしようと努力したり
周囲に対して、何を助けてほしいのか、きちんと説明をしたり
と言った努力をして、
その結果として始めて発生するものなのである。

祈ることを無駄だと言う気はない。
祈るしかない事があるのも十分に知っている。
祈っても何も起きない。と言っているのでもない。

祈りは力である。

これは正しい。
祈るとき、
全身全霊をかけて祈るとき、
自分自身の中の深い所から、
思わぬほどのエネルギーが沸いてくることも知っている。
でも、それは、すべて、行動が伴っていることが大切なのだ。

神は自ら助くるものを助く
と言う言葉をご存知だろうか?
溺れる者はわらをもつかむと言うが、
そのとき、おぼれているものにとって、
わらは丸太に勝るとも劣らぬ強大な存在なのだ。
そして、そのわらを必死でつかもうとする足掻きにこそ、
祈りの力、神の配剤が宿るのだと私は思っている。

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禁煙ができる!

喫煙の習慣というのは、結構厄介なものだ。
と言うのは、お酒と違って、
「ちょっと1本頂戴。」
と、簡単にいえるところにある。
不思議なことに、喫煙者のほとんどが、
この、「1本頂戴」をまず断らないことだ。
今、1箱が320円ぐらいすることが多いタバコ。
一箱に20本入っているから、
1本が16円である。
そんなに安いものだとも思えない。
不思議だ。
実は、私はタバコを吸わない。
健康のためにすわないのかと言うと、
そういったわけではなく、おいしいと思えないのだ。
若かりしころ、ためしに吸ってみたことがある。
どうにも、おいしいと思うことができなかった。
そして今でも喫煙の習慣はない。
そんな私が禁煙のことを話しても、実感がないかもしれないが、
周囲には、多くのヘビースモーカーが居る。
両親もその一人である。
多くの煙を、実に多くの煙を吸ってきた。
あ、結構、タバコのにおいって好きなんです。
自分では飲まないけれど。
そして、多くの禁煙を見たり立ち会ったり、手助けをしたりしてきた。
意志の力で無理やりねじ伏せるようにやめた人。
やめるのに失敗して、前より多く吸っている人。
毎日の本数は減らせたけど、禁煙はできない人。
色々な人を見てきたが、
ひとつ癒えることがある。

確実にやめたければ、
自分自身がなぜ、タバコを必要としているのか。
ちゃんと知ると言うことが大切だと言うこと。
難しく考えることはない。
なぜ、タバコを吸う必要があるのか?
これにいくつもの答えがあってもかまわない。
この答えが見つかったとき、
タバコが必要のない世界への扉が開かれるのである。
無理にねじ伏せることもない。
ただただ、自分の中にあるその意味に、
ただただ気が付くだけでいい。
そこから、何かが始まる。

こうして禁煙した人が、
私の周りにはたくさん居る。
私がしたことは、
なぜタバコを吸う必要があるのか?
の答えを見つける手助けをしただけだ。

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ことば

ことばと言うものは不思議なものだ。
丁寧なことばを使っていると、
自分自身の物腰も丁寧になっていることがある。

『太陽』と言う言葉を聞くと、
晴れた日を思い浮かべる。
『太陽』と言う言葉を聞いて、
雨の日を思い浮かべる人はほとんどいないだろう。

それほどに、ことばと言うものは、私たちをしっかりとつかんでいる。
私たちがことばを使っているのではなく、
ことばの持つイメージに、縛り付けられているのかもしれない。

『太陽』で、雨を連想しろと言うのではない。
ただ、今、自分自身が発している言葉に、
自分で責任を持つと言うことなのだ。
言葉を発することによって、相手に色々なイメージが伝わる。
そして、そのイメージは、人によって違うことが多いのだ。

『バラの花』と言う言葉で、何を連想するだろう。
  真っ赤な大輪のバラの咲く庭
  テーブルに生けられた1厘のバラ
  アーチ型に咲き乱れる小型の蔓薔薇
  窓辺を飾る白い薔薇
  壁にかけられた薔薇の絵
本当に多くのイメージがそこには存在する。
そして、立った一言、『バラの花』と聞いたときに、
そのどれを連想するのかは、
聞き手に任されているのだ。
そのことを忘れてはいけないのだと思う。
自分が伝えたいことを、どうやって「ことば」にするか
いつも、いつも、真剣に向き合っていたいと思う。

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とある母親が居た。
(これは寓話ではありません。)
子供はかわいいけど、思うようにならない。
思うようにならない子供は気に食わない。
そこに存在するだけでも腹が立つ。

この子はちょっと変わった子で、
現実の世界ではなく、空想の世界に生きているような子供で、
ちょっと虚言癖があった。
その嘘も、家庭の中だと、すぐにばれてしまうのだが、
外の大人には結構有効な部分があった。

母親は、この子をどうしていいかわからなくて、
ことあるごとにあたるようになってしまった。
もっとも、暴力を振るうと言うわけではない。
一緒の食卓で食べない。
とか、外食に行くときに、下の子しか連れて行かない。
(食事は与えていた。飢えさせていた訳ではない。)
同じ部屋で寝ない。
母親が言うには、
どうしても顔を見ると腹が立ってしまう。
なるべく顔を合わさないほうが、お互いに平和なのだ。と。
そのうち、学校にも行ったり行かなかったりするようになった。
勉強もしない。
母親は、勉強しろ!とは言うが、
具体的に何かをするわけではない。

そうするうちに、年度が替わり、クラスも、先生も変わった。
学校の先生が、この子のことを気にかけてくれるようになり、
毎朝、迎えに来るようになった。
そんなある日、
「僕、朝、ご飯を食べさせてもらってない。」
と、子供が言った。
「毎日、朝ごはんは食べさせてもらってない。」
と、
先生は驚いて、おにぎりを作ってくるようになった。

現実には、朝ごはんは用意してあった。
だが、起こしてもおきないので、
先生が来る時間には、朝ごはんを食べる時間がなかったのだ。

子供の話から、先生が朝ごはんを食べさせていることがわかった母親は、
「ちょうど良い、先生に食べさせてもらえばいい。」
と、言い放った。

今、その子は中学3年生である。
学校には、行ったり行かなかったり。

どこからすれ違っているのだろう。
どこですれ違ったのだろう。
そして、どこまですれ違っていくのだろう。

親だから子供がかわいくなければならない。
と言うつもりはない。
子供だから素直でなくてはならない。
などと言うつもりもない。
でも、何かが狂っている。
静かに、静かに、狂っている。

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スピリチュアルな取り組みと言うと、
良く、座禅をしています。
と言う答えが返ってくる。
私自身、得度しているし、座禅をしたことはある。
と言うか、今、空前のブームだとも言われている。
西洋においてすら、ZAZENという言葉が普通に使われるようになって来た。
で、
座禅ってなんだろう?
その前に、禅ってなんだろう。
裸と言う文字が、禅という文字に良く似ているな。
とわけもなく思ったことがある。
心を裸にすることが、禅なのではないか?
とそのとき思ったことだった。
文字を研究している人に怒られるかもしれないが、
似た文字と言うのは、
何か共通なニュアンスのようなものを持っていると思う。
心を裸にする。
それは、奥ゆかしい日本人にとって、とてつもなく難しい。
自分自身の心を見せない。
見せないことによって社会の調和を保つ。
それが日本人のあり方のように思う。
いや、私自身がそうして子供のころから生きてきたのだ。
心を偽ると言うわけではないが、
心を赤裸々には見せない。
同じではないが、まったく違うわけでもない。

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心と体の役割分担

良く、病は気からという言葉を耳にする。
すべての病が気からばかりではないが、
確かに、気持ちが病気を作り出すことはある。
特に、未熟な精神は、未熟な肉体に大きな影響力を持つ。
学校に行きたくない気持ちが、
現実に腹痛を引き起こすのがいい例である。
この場合、詐病と言って、うそをついている。
という見方をされる方が良くあるが、
子供に聞いてみると良い。
子供の言葉を素直に聞いてみると良い。
子供たちの多くは、本当におなかが痛くなっているのだ。
学校に行かなくていいからといって、
すぐにおなかが治るわけでもない。
現実に、下痢を繰り返したり、吐き気を訴えたりすることも多い。
これは、学校に行きたくない。
学校と言う空間に対して拒絶する気持ちがあるとき、
その不安が、胃腸と言う繊細な臓器に影響を及ぼすのである。
先ほど、未熟な精神は、未熟な肉体に大きな影響を及ぼす
と述べたが、
では、未熟ではない大人の場合はどうなのだろう。
実は、大人の場合でも、精神が成熟しているとは限らない。
肉体が大人になっても、精神は未熟なままであることは
実は結構多いのである。
頭では、理屈では、わかっていても、
そこに心の共感が伴わない。
こういった精神と肉体とのアンバランスは、
子供のころのおなか痛とはまた違った問題を引き起こす。
物事はますます深刻化するのである。

念のために記載しておくが、
精神がきちんと成長した大人はたくさん居るし、
精神が肉体より先に成長することだってもちろんある。
私は、すべての大人がこうであると言っているのでない。
そして、すべての登校拒否がこれが原因であると言っているのでもない。
このことはまたおいおいに述べていくことにしたいと思う。

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自分自身が、なぜ、今、ここに生まれてきたのか?
と問われて、答える事のできる人が居るだろうか?
ほとんど居ないに違いない。
人はみな、生まれてくるときに、
なぜ、ここに、この時期に生まれてくるのかを忘れる。
忘れないと都合の悪いことがたくさんあるからだ。
この世は地獄である
と、私はよく言うが、
それは、今が苦しみに満ちているからではない。
今の悩みや学びがそのまま魂に刻み込まれるからなのである。
では、なぜに生まれるときにすべてを忘れるのか?
そうしないと、新しい感覚を身に付けられないからである。
新しい感覚?
新しいもの見方とも言える。
何が美しいと感じるか?
何が楽しいと感じるか?
どうあれば幸福だと感じるか?
それは、生まれるたびに少しずつ違って見えるものなのである。

前世で出会った人に対してでも、
新しい関係で新しい感覚で出会えば、
また違った見方が生まれてくる。
そこにこそ、新しい生き方が芽生えるのだ。
そのために、生まれて来るとき、人はすべてを忘却の彼方に置いてくる。

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