カウンター


プロフィール

雨月

Author:雨月
カウンセリングやヒーリングを仕事として*年
最近では、スピリチュアリストと言う方が通りが良くなりました。
生きとし生けるものが大好きで、人が大好きで、何より寝ることが好き!
比叡の山中に庵(虹の風)を構えています。
疲れたら、一休みしにいらっしゃいませんか?
琵琶湖の風に吹かれ、鹿やいのししの声を聞き、鳥に目覚めを即される。そんな庵です。


最近の記事


最近のコメント


上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

オーラへの先入観

最近、オーラというものに対する認知度が上がって、
ほとんど誰でも、
オーラという言葉くらいは知っているようになった。
これがいらぬ混乱も招いているようにも思う。

というのも、
霊能者について考えてみてほしい。
ほとんどの人が、
霊能者とは、すばらしい人だと思っている。
そうだろうか?
霊が視える!
ということは、人間性とは関係がない。
人格がすばらしかろうと、品性下劣であろうと、
視える人は、視えるのである。
ただ、その、視えるものから、何を導き出すか?
この部分については、人間性が大きくものをいう。
つまり、
何ができるかではなく、
何を導き出すことができるか?
ということが重要なのだ。

オーラに関しても、
同じようなことがいえると思う。
霊を視るよりも、
オーラを視るほうが数段簡単である。
いや、数段簡単というより、
どのような視え方か?
オーラのどの部分を視ているのか?
ということを問わなければ、
ほとんどの人が、オーラを見ることはできるのだ。
ちょっとした、地道な努力と、先入観を捨てることができれば、
オーラを視ること自身は、そんなに難しいことではない。
現に、
私のところの講座で、
多くの方が、オーラを感知することができるようになっている。
彼らは、普通の主婦であったり、普通のサラリーマンだったりする。
何か特別な修行をしたり、
何か特別な血統の生まれだったり、
何か特別な前世を持っていたりするわけではない。
みんな、普通に生まれ、普通に生き、普通に生活している人たちだ。

だのに、
オーラが視える
というだけで、特別視したり、
あたかも、その人自身が特別な存在であるかのように
周囲も、時によっては、本人自身も、錯覚していることがある。
守護霊がみなに平等に憑いているように、
オーラはすべての人が持っている。
自分自身のオーラを知るということは、
自分自身の中を知るということに通じる。
そして、自分自身を、
自分の望む方向に発展させtるための
一石を投じることができる。

特別なものを求めても、
そこにあるのは、毎日の積み上げでしかない。
そして、毎日の積み上げだけが
運命を切り開いてくれるのだ。


ブログランキングに参加しています。
にほんブログ村 哲学ブログ スピリチュアル・精神世界へ
ポチッとしてくれたら嬉しいです。

もし、共鳴して下さったら、web拍手を!
雨月の励みになります。

スポンサーサイト

心のオーラ

先だって、オーラをみるということについて書いた
その中で、
オーラには3つあるということを書いた。

心のオーラ
肉体のオーラ
霊体のオーラ

の3つである。
この中でも、心のオーラは際立って輝いている。
「オーラをみる」
という人の多くが、この、心のオーラを
見ていることが多いのは、
このためだと思われる。
「心のオーラ」は常に活動している。
人間が生きている限り、
その心の活動もまた、常に動いているからだが、
人間は、ほかの動物と違って、感情という豊富なエネルギー源を持っている。
怒り、悲しみ、楽しさ、寂しさ、
すべての感情、感覚がこのエネルギー源となる。

人は、何も感じずに生きることはできない。
人は、何も思わずに生きることはできない。
人は、一人で生きることはできない。


時事、刻々と変化する感情や感覚、
それは、一種の波動となって常に放射されている。
楽しいときは楽しい波動が
悲しいときには悲しい波動が
悔しいときには悔しい波動が

これを、光ると色で感知するのが
いわゆる心のオーラである。

お母さんが、腕に抱いた赤ちゃんの顔を覗き込むとき
そこにはなんともいえないやさしい波動がある。
それは、透明なオレンジからピンクの
みていても暖かくなるような、しかも、穏やかな色と光をしている。
根本的な基本色ももちろんあるが、
その上に培われる、
日々の心のオーラの色の変化は、
そのままその人の生き様を表していることが多い。

いつもやさしくありなさい。
といわれて、その日から、いつもやさしくしていられるものではない。
そして、そんなことは現実的でもない。
腹が立つことがあれば、怒るし
悲しい出来事に出会えば、沈んだ気持ちになるし
良いことを見たり聞いたりするとあかるいきもちになる

ただ、それにとらわれないことが大切なのだ。
そのときそのとき、
あるがままにありながら
自分自身のあるべき姿に、
自分自身の、こうありたいという姿に、
ちょっとずつ、ちょっとずつ、近づけていけば良い。

無理をしても、
心のオーラはとても正直で、
無理をしているストレスの色に染まる。・
自分らしさ、自分らしい色を中心に、
より輝く色を持つこと。

心のオーラにおいて、
怒りと、積極性はよく似た色をしている。
同じような波動が基本にあるからだ。
それを、怒りや短気として表現するか、
積極性や決断力として表現するかは、
私たち自身の問題なのだ。

だからこそ、
自分自身をより大切に、
自分自身の感覚を大切に、
自分自身をどう生き生きと表現するか
自分自身をどう愛することができるか。
真剣に、
深刻にはならないで、
真剣に!
生きていってみたいと思う。


ブログランキングに参加しています。
にほんブログ村 哲学ブログ スピリチュアル・精神世界へ
ポチッとしてくれたら嬉しいです。

もし、共鳴して下さったら、web拍手を!
雨月の励みになります。

人のうわさも75日

人のうわさも75日 といいますが
確かに、うわさなんていうものは、
じっと我慢していればいつかは忘れてしまう。
といえ、
本当に記憶から消えてしまうわけではない。
何か引っかかれば、
いつでも再燃するようなあいまいなものである。

これとは違うが、
「沈黙は金」と言う言葉もある。
もともとは、
「沈黙は金、雄弁は銀」であり、
ほとんどの人は、いろいろ言うな、黙っていれば、見る人が見ているのだから、
と言う意味のように取っているとおもぷ。
今はそういう意味になっているので、
それでもいいのだが、
もともと、この言葉ができたころは、
日本は銀本位制だった。
金より、銀のほうが貨幣の基準としての地位が高かったのだ。
日本のことを、黄金の国ジパングと表現した方が居たが、
そのころ、日本においては、銀があまり取れず、
金のほうは豊富に取れていたのだ。
鎖国時の長崎において、最大の輸出品は金だった。
そのころで来たことわざなので、
とうぜん、銀のほうが役割が高い!
つまり、黙っているより、言うべきことは言いなさい!
となるのだ。
これでは真反対である。
しかし、いまや、反対の意味の方がオーソドックスである
それなら、やはり、
今、通用して居る意味を中心におくべきなのかもしれない。
ことわざの内容すら、時代によって変化するのである。

これをそのまま「人のうわさも75日」に当てはめるわけではないが、
伝達手段や、記録方法(識字率の高さ)などからしても、
75日たったからと言って、
うわさが忘れられたり、なくなったりしない。
先ほども述べたように、
ちょっとしたことがきっかけで、
再燃することは十分に考えられるのだ。
それなら、悠長にただ、うわさが消えるのを
待っていても仕方が無い。
誤解だったり、事実と違ったりする場合は、
きちんとそれを話しておくほうがいいのではないだろうか?
もっとも、
犯人探しや、うわさの否定に力を入れすぎて、
逆効果にならないようにする注意は
忘れてはならないとは思う。

ブログランキングに参加しています。
にほんブログ村 哲学ブログ スピリチュアル・精神世界へ
ポチッとしてくれたら嬉しいです。

もし、共鳴して下さったら、web拍手を!
雨月の励みになります。

尻尾があったら

人間に尻尾があったら。
と言うのは良く聞くフレーズだが、
本当に尻尾があったらどうだろう?
人間には、もともと尻尾があった。
尾てい骨の先の仙骨はその尻尾の名残である。
と言うことは、
進化の過程において、
どこかで尻尾を置き忘れてきたらしい。
進化するのに、不必要だと種の本能が判定したのだ。

尻尾にどんな意味があるのだろう?
サルやカンガルーのように、
尻尾が無いと実際に生きていくのに困る
と言うわけでもない。
たとえば、猫を見てみよう。
猫には基本的に長い尻尾がある。
親猫は、子猫を遊ばせるのに、尻尾を使う。
威嚇するとき、尻尾を膨らませる。
しかし、ジャパニーズボブテールやマンクスのように、
尻尾が無かったり、極端に短い猫も居る。
それでも、何の差しさわりも無く生きていける。
しかし、
猫の尻尾が退化していく傾向は見られない。
では、なぜ、人間の尻尾は退化したのか?
まあ、
こんなことは科学者に任せてしまえばいい。
今回の焦点は、
人間に尻尾があったら?
と言うことだ。

犬のように、喜怒哀楽を表現するだろうか?
いや、
そうはならない。
人間は考える生物だ。
考えるがゆえに、自分自身の行動を自作することができる。
つまり、感情のとおりには行動しないと言うこと。
人間が、犬や猫のように、
自分自身に正直な本能しかない生物であれば、
喜怒哀楽のままに尻尾が動くだろう。

しかし、悲しいかな人間は考える。
そして、考えた結果に従って行動する。
悲しいときに尻尾が下がり、
うれしいときに尻尾を振り、
怒ると尻尾を膨らませるには、
素直さがあまりにもかけている。
きっと、怒っているときにも、悲しいときにも、
尻尾を振るだろう。

ブログランキングに参加しています。
にほんブログ村 哲学ブログ スピリチュアル・精神世界へ
ポチッとしてくれたら嬉しいです。

もし、共鳴して下さったら、web拍手を!
雨月の励みになります。

平均値であること

平均点
何事にも、平均値と言うものがある。
ブティックに売っている服ひとつをとっても
日本人の体型の平均と言うのが基準となっている。
この平均と言うのは、
多くの場合、生活の中に欠かせないものとなっている
われわれが初めて社会として接する
幼稚園、保育園、小学校、中学校
全てにおいて、
平均値と言う見えない影が、大きく物事を支配する。
平均値と、許容範囲は
人の健康にもその影を落とす。

健康診断を受けてみよう
血圧
体重
体脂肪率
白血球数
血液の比重
心臓のパルス
本当に、さまざまなものが計測され、
一覧表となって提示される
そして、あなたの健康状態が判断される。
でも、ちょっと待ってみよう。
血圧が常時250でも、健康な人も居る。
この人にとって、血圧が250あることは、通常の状態なのだ。
確かに、
平均値は大切で、
それを把握しておくことは大切だろうが、
全ての事を平均に収めようとするのは危険が大きい

身体についてをたとえにしたが、
これを、メンタルの面で捕らえてみると、
このことはもっとはっきりとする。
個性と呼ばれるそれは、
往々にして、平均値の外に存在する。
精神面での平均値は、
円滑な社会生活にはとても大切なことだが、
文化、文明を育てる上での原動力となりにくい。
ここでは、平均値に収まらないユニークさが
その原動力の中心となるのである。
細かな部分では、流行もそうして生み出される。

平均であることより、
いかにバランスよく平均から外れるかが重要かもしれない。


ブログランキングに参加しています。
にほんブログ村 哲学ブログ スピリチュアル・精神世界へ
ポチッとしてくれたら嬉しいです。

もし、共鳴して下さったら、web拍手を!
雨月の励みになります。

演技

私たちは、毎日を少なからず作り出している。
作り出すと言うのは、
自分自身がやりたくも無いことをしたり
言いたくもないことを言ったり
また、ぎゃくに
やりたいことをぐっとがまんしたり
言いたいことを言わずにいたり

それはほとんどの場合
社会や家族、職場において
円滑な人間関係を築くためだ。
そして、そのためには、

いやなことを我慢しています!
やりたくも無いことをやっています!

と言うことがわかっては何にもならない。
だから、まるで、
別に今、やりたいことはありません。
今やっているのはとてもやりがいがあります。
と言うような顔をする。
これを演技と言う。

人生は、オギャーと言ったときに幕を開け、
顔に白い布がかけられたときに幕を下ろす
長丁場の芝居のようだ。
友人や知人と言う多くの観客の前で、
ノンストップで芝居は続く。
そのとき、時々に、家族や同僚など言う役名の
共演者がいたりする。

人生は、思っているよりも長い。
その間、
良い子供を演じ、
良い学生を演じ、
良い若者を演じ、
良い新人を演じ
良い先輩を演じ、
良い恋人を演じ、
良い親を演じ
良い親父を演じ
良い母親を演じ、
良い嫁を演じ、
良い婿を演じ、
良い年寄りを演じていく。

いつも、いつも、良い演技ができる訳では無い。
休みたくなることもある。
舞台から降りたくなることもある。
自分自身の思いと、
今、やらなくてはならない役割との間で、
苦しみ、もがき、悩み、笑い、泣き、
そして、自分自身の位置を決めていく。
それが人生と言う舞台なのだろう。
私も、もう、人生舞台の終盤に差し掛かったのかもしれない。
このごろ、どんな終幕になるのか?
と言うことが頭を掠める。
一人で良い。
拍手がもらえる。
そんな終幕にしたいと思う。



ブログランキングに参加しています。
にほんブログ村 哲学ブログ スピリチュアル・精神世界へ
ポチッとしてくれたら嬉しいです。

もし、共鳴して下さったら、web拍手を!
雨月の励みになります。

オーラをみる

最近の日本人は
オーラと言うものに対して、大変過敏になっている。
テレビをはじめとするマスコミが取り上げたと言うこともあるが、
もともと、見えない世界に対する恐怖と好奇心が
ひとつの形を与えられ、
それにしがみついているかのような感すらある。

オーラを見る
オーラを診る
オーラを看る
オーラを視る

どれも、読み方は同じである。
しかし、その持つ意味は大きな違いがある。
おいおいにひとつずつ解説しようとは思うが、
その意味において、まずいっておくべきことがある。
オーラは、一種類ではない。

肉体のオーラ
心のオーラ
霊体のオーラ

この3つが重なり合って今の自分のオーラを作っている。
そのためと言うこともあるのだろうが、
オーラの色は、一定ではない。
もちろん、肉体の部分によっても違うし、
そのときの気持ちら、体調によっても刻々と変化する。
しかも、オーラがみえる。といっている人たちが、
一人の人のオーラを見て、
それぞれに違うことを言う場合がある。
これもまた致し方ないのかもしれない。
というのは
先程述べたように、
オーラは基本的に3種類あり、
その重なり合いで色が出現しているのだとすると、
心のオーラしかみえない人にとって
肉体のオーラしかみえない人tにとって、
霊体のオーラしかみえない人にとって、
それぞれにみている色は違うものと成るだろう。
しかも、
それぞれがもっと複雑に絡み合っている場合、
幾種類もの見方があるということになる。

これは、現実世界においても、
ひとつのものを表現するのに、
(私はこれの比ゆによく薔薇の花を使うのだが、)
たとえば、
花瓶にさした大輪の真っ赤な薔薇があるとしよう。
「高価な花瓶にバラが挿してあった」
「ガラスの花瓶に棘だらけの薔薇が生けてあった」
「真っ赤な薔薇が挿してあった」
「大輪の薔薇が生けてあった」
「薔薇を挿したきれいな花瓶があった」
「花を挿したガラスの花瓶が机にあった」
これらはすべて正しい。
それぞれが、目を付けている所が違うだけである。
しかし、
これらの答えから、
これを聞いた人たちが想像するものは、
大きく違ったものとなる可能性がある。
だからといって、
「マホガニーの机の上中央付近にに、直径10センチ高さ30センチのカットガラスの花瓶がおいてあって、中には8分目まで水がいれてあった。その中には、大輪の真っ赤な薔薇が棘もみずみずしく1輪だけ挿してあった。花は八分咲きで、とても良い香りがした」
と、一つ一つ言うのもまた、
円滑に会話を進める上では、
とても現実的でない。

それぞれが、そして話を聞く側が、
相手の傾向を知り、
それを補足することがある程度もとめられる。
常に疑問を持つことだ!
これでいいのだろうか?
この人にとってオーラはいったい何なんだろう?
自分自身はなぜオーラを知りたいのか?
自分自身にとってオーラとは何か?

ちょっと流れは外れるが、
キルリアン写真とオーラは = ではない。
そして、
オーラは、生きている限り、
いや、死して霊体となったとしても、
刻々と変化し続けるものなのである。


ブログランキングに参加しています。
にほんブログ村 哲学ブログ スピリチュアル・精神世界へ
ポチッとしてくれたら嬉しいです。

もし、共鳴して下さったら、web拍手を!
雨月の励みになります。

有言実行

不言実行と言う言葉がある。
言わないで、でも、行うということで、
やるよ!やるよ!
と宣伝しながらやるよりも
黙って実行するほうがすばらしい。
と言うような意味なのだが
そうなのだろうか?
単純に疑問がある。
これこれをやります。
と言わないでいれば
それを実行するつもりがあるのかどうかどうやって分かる?
実行しなくても分からない。
実行して始めて分かることは、
それはそれですばらしいのだろうが、
はっきりと表明し、
自分自身をそこに追い込んでいくというのもまた、
いろいろなことを成し遂げるために原動力のように思う。
それに、
実際的な効用もある。
というのは、
これこれをやります。
と、事前に聞いておけば
周囲も、それに備えることができると言うことだ。
備えると言うのは大げさかもしれないが
だれそれがそれをするのだったら
自分はここで助けてあげよう。
とか、
それが実行されたら、自分はこうしよう。
と、いろいろと効果を広げることが出来る。
それだけでなく、
もし、実行しようとしていることが
周囲や社会にとって逆効することだったとき
話し合いや、説得などで、
思いとどまらせることや路線変更、開始時期をずらす。
などという対策も可能なのである。

不言実行はすばらしいかもしれない。

本当によいことなら、
みんなはびっくりするだろうし、
自分自身を大きく見せることも可能である。

有言実行は、もっとすばらしい。
人は、結構見栄を張る生き物である。
自分が、これこれをやります!
と宣言するとき
結構能力いっぱいのことを言っていることが多い。
それを、公言することで、
必死で実行、完結にこぎつけたとしたら
それはその人の能力をますます高め
そして、完結するときには
その人自身にも、さらなる実力と自信がついていることだろう。

やらなくても誰にも分からない不言実行より、
やらなければ恥ずかしいと思うことの出来る有言実行を
私はすばらしいと思う。

だが、
いまや、
有言不実行がいかに多いことか!
日本男子(女性でもだが)
自分がみんなの前で言ったことぐらい
必死になってやってみよう!
一生懸命やって、
本当に一生懸命やって、
それでも完結しなかったとて
それは恥ずかしいことではない。
その過程を必ず周囲の人は見ているだろうし
その過程にどれだけ努力し、
その過程にどれだけの力を費やしたか、
必ず理解してくれる人がいる。
それこそがほかにかけがえのない財産となるのだから。

失敗を恐れて、
不言実行などと気取っていては、
自分の垣根など一生破れない。
自分自身を、少しでも大きく成長させるのは、
どれだけ努力して失敗するかなのだと思う。


ブログランキングに参加しています。
にほんブログ村 哲学ブログ スピリチュアル・精神世界へ
ポチッとしてくれたら嬉しいです。

もし、共鳴して下さったら、web拍手を!
雨月の励みになります。

家を出る

「家を出る」

この一言で何を連想するだろうか?

夫婦喧嘩をして家を出る。
仕事のために、家を出る
ただ、なんとなく出かけるために家を出る。
独り立ちするために家を出る
得度して仏教者となるために出家する。

ちょっと考えただけでもこれだけある。
立った一言、「家を出る」といっても、
その中にはさまざまな意味合いが含まれていることだろう。
ただ、これらの中でひときわ異彩を放つのは、
やはり、
得度して仏教者となるために出家する。
だろう。

昔は、本当に家を出たのだ。
家を出、自分自身の親、兄弟、
友人や仕事仲間など、
あらゆる人間的しがらみから離れ、
ただ一人の人間として、
出家する。

実は、これは仏教者に始まったことではない。
キリスト教でも修道院に入り、
俗世を捨てるといって、
やはりこれまで生きてきたすべてのしがらみを捨てる。
と言う儀式と習慣がある。

ヒンズー教でもサドゥウといって、
やはり現世のすべてを捨て、修行生活に入ると言うのがある。

私はあまり物を知らないので、
他の宗教については良く知らないのだが、
さまざまな宗教で、
やはり同じようなことが行われているのだろうと思う。
つまり、
人が本気で自分自身を突き詰めたり、
自分自身を見つめたり、
自分自身の中を掘り下げたり、
何かを悟ろうとしたりするとき、
生活や家族と言う名の、
いわゆる俗世と言うものが、
とてつもない重荷となることが多い。

毎日、仕事に出て行かなければ成らない毎日で、
今、ここで、目の前に何かが見えようとしているときに、
一体どうしたらいいのだろう。
真剣に成ればなるほど、
世間的には不適応者となってしまう。
家族や友人、知人に迷惑をかけたくなければ、
独りきりになって追求するしかないのだ。

昨今、
日本における仏教の出家と言うのは、
あまりにも、はなはだしく形だけになってしまった。
一番厳しいと言われる所ですら、
一定の期間が過ぎれば、
家族の元にも帰るし、
家族もまた、それを当然と思う節がある。
私自身も尼僧だが、
髪も剃っていなければ、
家という大きなものも、
自分自身の仕事も、
何も捨て切ってはいない。

最近の書物に、
出家などしなくても、
家庭でだって修行はできるし、
そのまま悟りを得ることもできる。
と書かれているのをよく目にする。
間違っては無い。
ただ、それはとてつもなく難しいだろうと思う。
もっとも、
本当の意味で出家しようにも、
日本中で、そんなことのできる所はあるのだろうか?
寺院において出すら、
その建物の維持、管理に神経を使い、
そのために必要な金銭をいかにして得るか?
それが大きな課題となっている。
古里名刹になればなるほど、
その傾向はむしろ強くなる。
そして、そういった事実をあざ笑うかのように、
人々の宗教離れもますます進んでいく。

いつでも、どこでも、何をしていても、
悟りを得ることができる。

それは間違っていない。
それは正しい。
ただ、そこに至る道は、
出家して、ただただ、思惑のみに日々を費やすより、
決して近道ではないのだ。
もっとも、先程述べたように、
今の寺院における仏教者の生活は、
思惑に費やす時間は少なそうであるが。

家庭の中において、
出家する。
これは書物に書かれているよりも、
なかなかに難しい。
楽そうなことって、
何でこんなに難しいんだろう?
ちょっと考えてみれば、
たっても楽そうに見える。
そうすると、始める前から、
ゴールに到達した気分になることができる。
これもまた、大きな障害物のひとつだろう。

「家を出る」

心の中に立てた家を
心の外においてみる。

一歩、一歩、あきらめず。

ブログランキングに参加しています。
にほんブログ村 哲学ブログ スピリチュアル・精神世界へ
ポチッとしてくれたら嬉しいです。

もし、共鳴して下さったら、web拍手を!
雨月の励みになります。

魔女になる

冗談なのではない。
真剣に、こう言われたのだ。
「私、魔女になりたいんです。」
小学生や中学生ではない。
三十路も過ぎようと言う大人の女性にだ。
真剣に、まじめに言われた以上、
私もまじめに答えなくてはならない。

「あなたにとって魔女ってどういった存在ですか?」
これには明確な返事が来なかった。
で、
問いを変えてみた。
「あなたは魔女になって何がしたいのですか?」
「自分だけでなく、人の恋を成就させたいんです。
恋人をつなぐことができたらすごいと思うし、
私にも、いい恋人を見つけられると思うから。」
テレビの見すぎだろうか?
と、一瞬真剣に考えた。
この方、大真面目なのである。

世の中に、実際に魔女と言われる人たちがいる。
日本ではほとんど見も、聞きもしないが、
アメリカを始めとする諸外国には、
結構魔女はたくさんいるのだ。
魔女と言うからには、女性を連想するが、
結構男性もいる。
まあ、その辺は今回の中心ではないので割愛するが、
魔女=恋愛 というのも。。。。
その前に、この方の魔女と言うもののイメージを訂正してもらわなくてはならない。

以前にも述べたと思うが、
「魔法」や「魔術」を使う女性のことを「魔女」と言う。
実は、
キリスト教が「魔女」を作り出した。
と言うのは案外と知られていないことである。
キリスト教が布教するに付いて、
他の宗教をすべて「異端」とした。
キリスト教においては、神は唯一神であり、
ただひとつのの神以外に神は存在しない。

つまり、太陽や、森と言った自然に存在する力を
神として信仰することは、
教義に反するのである。
そこで、自分たちの「神」以外の「神」を
すべて否定するために、「悪魔」と言う存在を作り出した。
「魔女狩り」「異端審問」
などは今でも色々な文書に出てきたり、
ちょっとしたオカルトチック名映画やドラマにも出てくる。
「キリスト教の言うこと炉の紙以外の神を信仰し、人々を惑わせる存在」
これが「魔女」と言う形に集約されたのだ。

だから、もともとは決して怪しげなことをするわけではない。
だが、
特に、恋愛を成就させるために存在するわけでもない。
アメリカのとある魔女集団を少しだけ知っている。
そこでは、自然の理や、
物事の成り立ち、
自然に逆らわずに如何にその力を分けてもらうか。
自分自身の持つエネルギーを高め、
自分自身をいかに高めるか。
そんなことを一生懸命に学んでいる。

力を持つものは、
その力を行使するに付いて、
多大なる責任を伴う。

これは、当たり前の理であり
大前提として存在するのだ。

以前にもたとえたとは思うが
ここでももう一度書いておこう。
もし、あなたが恋をしているとして、
魔術と呼ばれるものの力を借り、彼の心を入手したとしよう。
これは、あなたにとってはすばらしい成功で
心躍ることであろうが
彼にとってはどうだろう?
彼は、心から愛する女性がいたかもしれない。
あなたが彼の心を手に入れようと思うと同じくらいの強さで、
彼も、誰かを愛していたかもしれない。
彼はすでに付き合っている人がいたかもしれない。
特に問題も無く、いずれは結婚しようと、前向きにお付き合いする相手がいたのかもしれない。
彼は、あなたが好みの女性ではないかもしれない。
これらのことの以前に、
あなたと一緒になって彼は幸せなのだろうか?
あなたは彼に何を上げることができるのだろう?
手に入れることばかり考えて、
彼に何があげられるか考えただろうか?
人の心は、魔術などで手に入れるものではない。
そこに本当の幸福は無いと思って良い。

書店の棚に並んでいる書物に、
「妖精の魔法」とか、「白魔術」とかの名前で
こういったことに対するお呪いが書かれていることが多い。
恋する乙女にとって、
恋する男性の心を振り向かせることは
とても大切なことであり
どんな力にだってすがってみたくなるのは致し方ないことだと思う。

そこに大きな落とし穴がある。
「魔女」になったとしても
その力を行使するには、
一定の規則や法則があるので
この文章の最初に出てきた人物のような具合にはいかないのだ。

あ、「魔女」は存在します。
「魔女」になりたければ、それは可能です。
ただし、私の言う「魔女」とは、
彼女がなりたい「魔女」ではない。

ブログランキングに参加しています。
にほんブログ村 哲学ブログ スピリチュアル・精神世界へ
ポチッとしてくれたら嬉しいです。

もし、共鳴して下さったら、web拍手を!
雨月の励みになります。
一時期、こんな言葉がはやった。
「想定内」「想定外」と言うものだ
「想定内でした」
「想定外の出来事です」
といった具合に使うのだが、
これ、そんなに目新しい言葉ではない。
もっとも、意味において目新しくないと言うのではある
簡単に言えば、
「想定内」
色々と予測していたけど、現実におきたことはその予測の中にあったことだ。
「想定外」
色々と予測していたが、現実に起きたことはその中になかった。
と言うことだが、
これを表現する言葉は昔からあったし
特に、「想定外」については
多分、今でも、頻繁に使っている。

「こんなはずじゃなかった」
と言うのがそうだ。
もっとも、
「想定内」と言う言葉がはやった背景には
明らかに「想定外」のはずなのに、
プライドやぼろ隠し、隠蔽などの意味を持って、
あたかもそれを想定していたかのように表現し、
「想定内」
といったことに端を発しているので
これを取り立てて云々するのはどうか?
とも思うが、
さいきん、あまりにも、この、
「こんなはずじゃなかった」
と聞くことが多いので、
つい、気になってしまったのだ。

テレビドラマや、小説の中では、
「こんなはずじゃなかった」
「そんなつもりじゃなかった」
と言うせりふには、
たいてい突込みが入る。
「じゃあ、どんなはずだったの?」
「どんなつもりだよ。」

現実の世界では
これらの突っ込みは発言されることがあまりない。
でも、
心の中では、
この突っ込みはされていることが多いように思う。
少なくとも、私の場合は
おおくの場合、
心の中で突っ込んでいる。

日本の仏教界において、
出家(得度)の際に、
十善戒というものを与えられる。
これは、基本的には出家しなくても、
人として生きていく上で守るべき教えの基本であり、
その中に、
やはり、人を惑わせる言葉を言うなかれ、
と言うのがある。

「こんなはずじゃなかった」
「そんなつもりじゃなかった」
というのは、
一見、人を惑わせてなど無いように思う。
しかし、よく考えてみてほしい。
これ以上の言い訳はあるだろうか?
そして、この言葉ですべてを済まされてしまったら、
現実に直面している人々に対して、
いったいどのような責任が取れるというのであろう。
「こんなはずじゃなたっか」
「そんなつもりじゃなかった」
の後には、無言の言葉が続いている。
「だから、そんなに責めないでほしい。」
「だから、この事態に私には責任が無いと思う」
物事をするときには、
その結果がどうであれ、そのことについて責任をとる必要がある。
それを逃れることは、
人を惑わせていることにはならないのだろうか?
もちろん、純粋な過失と言うものはある。
実際、「想定外」だったのだろう。
しかし、その場合は、
現実的対処と言うものが必要になる。
「想定」していなかった責任
というものがあるのだ。

良く、運転者の講習で、
「だろう運転」と「かもしれない運転」と言うことが話される。
人生における、
「だろう運転」と「かもしれない運転」があるのではないか?
もちろん、神でない人間の身
すべてのことに備えることはできないし、
すべての可能性を思いつくわけではない。
しかし、「万が一」がおきたときに、
全身全霊でそれに取り組む。
それだけの覚悟はしておこうと思う。

ブログランキングに参加しています。
にほんブログ村 哲学ブログ スピリチュアル・精神世界へ
ポチッとしてくれたら嬉しいです。

神様って?

神様って何ですか?
とても、簡単で、とても難しい質問をいただいた。

たった一言に近い短い疑問だけど、
そこに含まれるものは、
とてつもなく、大きく重い気がする。
人が、「神」と言う言葉を使うとき、
そこには色々なものが内在する。

人は、「神」の中に自分にはないすべてを、
自分の手には届かない何かを、
自分ではどうすることもできない何かを
いっぱい詰め込んでいる。
そして、見ることのできない存在、
触ることのできない存在として位置づけ、
自分自身を罰したり、
自分自身を許したりするのに利用する。

「神」とはそういった存在であろう。
この場合、
「神」が実際にいる必要はない。
なぜなら、
「神」は絶対であり、触ることも見ることもできない。
自分自身にはまった駆動することもできない存在なのだから。
この場合、
「神」はさまざまな言い訳にも利用される。
そういった役割を担う存在として、
「神」を作り出したのもまた人なのだろう。
これを「仏」と言い換えても、
多くの場合はあまり変わりがない。
なぜか日本人は、「神」より「仏」が優しいと定義づけしているが、
国によってはこれが正反対の場合もある。

では、「神」はただ人間が思考の上で作り出した幻なのか?
そうではない!
「神」は実際にいる。
ただ、われわれが、「神」に与えている役割とは
ちょっとばかりその存在の仕方が違うように思う。

とても単純な比喩なのであるが、
「神」の目から見ると、
すべての命の重さは同じで、
その大切さに寸毫の違いもない。
そうすると、
命の多さから考えても、
人間も、ゴキブリも、蚊も、樫の木も、タンポポも、
みんな同じ重さの命であることに変わりはない。
人間にばかり気をとられているはずもない。
一人の人間のために、
大きな力を振るい、
多くの影響を与えそうなことに
力を貸そうとすると考えるほうが変ではないか?
すべての命が平等な世界では、
ひとつの命の流れを変えようとすると、
当然、大きくほかの命の流れを変えてしまうことに通じる。
そのような危険を冒すには、
よほど大きな必要性があることに限られるだろう。

ここで断っておくが、
「祈り」が無駄だと言うのではない。
「祈り」は大切なもので、
「祈り」によって大きな力が動く。
だが、それと「神」と言う存在とはちょっと違うということなのだ。
「神」と言う存在を軽く考えないでほしい。
「神」と言う存在を人間に都合の良いように定義しないでほしい。
と言いたいのだ。
「人間」は、往々にして、
自分が世界の主であるかのように錯覚する。
自分たちが幸せであることが世界を幸せにすると言うか、
まあ、それは大げさではあるが、
そのための必須アイテムのように、
「神」を捉えている傾向があるように思う。

あなた自身の運命を決定付けるのは、
あなたが創り出した「神」ではない。
あなた自身なのです。

ブログランキングに参加しています。
にほんブログ村 哲学ブログ スピリチュアル・精神世界へ
ポチッとしてくれたら嬉しいです。

おいしい魔法

毎日、毎日、ご飯を食べる
毎日、毎日、おやつをいただく。
毎日、毎日、お茶を飲む。

いただきます。
ごちそうさま。

一生にうちに何度繰り返すことだろう。
1年を365日として、1日3食、1095回。
これまでいったい何回の
「いただきます」と「ご馳走様でした」を繰り返してきたのか。
そして、これからもきっと繰り返していく。
そのとき、
おいしい!
と思うことはどのくらいある?

かなり前になるが、関西のテレビ番組で面白いことをしていた。
イチゴシロップをかけたカキ氷。
当然、イチゴ味である。
これを、トンネルの中で食べると、
メロン味になるのだと言う。
実験開始。
本当にメロン味になるらしい。
訳はいたって簡単。
トンネルの中の照明の関係で、
イチゴシロップをかけたカキ氷の色が、
赤から緑に変わるのだ。
もちろん、本当に色が変わるのではなく、
人間の目には緑に見えると言うことだが、
そうすると、味覚もだまされて、
メロン味だと錯覚する。

人の味覚が如何に視覚に頼っているのかがわかり、
とても興味深い実験だった。
私たちは、
感覚の中でも、
特に視覚に頼っていることが多い。
人間を、人間の形に認識するのすら、
視覚に頼っている。
生まれつき視覚を持たない全盲の子供に、
粘土で人間を作ってもらう。
と言うことをした作品の写真を見たことがある。
とても変わった形をしていた。
ほとんどが触覚に頼ったそれらは、
子供たちが一番認識している対象。
たとえば、口
などに偏った形をしているのだ。
この形を文章で表現することは私にはできない。
いつか、機会があれば、ぜひ見てほしいと思う。

本来、口や舌で味わうはずの味覚ですら、
視覚に頼っているのだとすれば、
私たちの「おいしい」と言う感覚も、
きっと、多くを視覚に頼っているのだろう。
同じ料理を作っても、
ちょっとした心遣いで、
「おいしい」料理に変身することができる。
反対に、どんなにおいしいはずの料理でも、
ドカン、と皿に、盛り上げただけでは、
そのおいしさも半減してしまう。

もちろん、
「おいしい」にはたくさんの要素がある。
見た目だけでおいしさが決まるわけではないが、
視覚の要素を取り入れるだけで、
毎日の食卓に、
「おいしい魔法」がかけられるのだとしたら、
そのひと手間は、
きっと、報われたものとなるだろう。
自分自身のためにも、
「おいしいと言う魔法」をかけてみたい。
「おいしい」食べ物は、
きっと体も喜ぶ。
体が喜ぶ食べ物は、
心にとってもいい栄養素となる。
だから、毎日、ちょっとした「おいしい魔法」をかけてみたい。
家族のために、友人のために、自分自身のために

ブログランキングに参加しています。
にほんブログ村 哲学ブログ スピリチュアル・精神世界へ
ポチッとしてくれたら嬉しいです。

Powered by FC2 Blog
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。