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雨月

Author:雨月
カウンセリングやヒーリングを仕事として*年
最近では、スピリチュアリストと言う方が通りが良くなりました。
生きとし生けるものが大好きで、人が大好きで、何より寝ることが好き!
比叡の山中に庵(虹の風)を構えています。
疲れたら、一休みしにいらっしゃいませんか?
琵琶湖の風に吹かれ、鹿やいのししの声を聞き、鳥に目覚めを即される。そんな庵です。


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がんばれと言う

がんばれと先生が言う
がんばれと友人が言う
がんばれと両親が言う
がんばれと自分が言う

何を?
どうやって?

今、自分はがんばっていないのだろうか?
今、自分は怠けているのだろうか?
今、自分は現実から逃げているのだろうか?
今、自分は後ろ向きなのだろうか?

魂をきれいにしろと言う
オーラをきれいにしろと言う
心を美しくと言う
徳を積めという

今、よりよく生きていないのだろうか?
今、魂が穢れていると言うのだろうか?
今、間違った道に進んでいるのだろうか?
今、堕落しようとしているのだろうか?

人は、悪気なく周囲を傷つけることがある。
励ましたり、元気付けているつもりで、
いつの間にか、相手を傷つけてしまっていることがある。
心からの善意が、相手を追い詰めていることがある。
いつも、いつも、張り詰めて生きていくことはできない。
自分で良かれと思うことを、
今。精一杯やることしかできないのもまた、人間であると言うこと。

言葉を送る側も、
言葉を受け取る側も、
ちょっとした余裕があるほうがいい。
100パーセントは美しいが、
80パーセントのほうが長続きすることも多い。

人のいい面を見る努力をせよと言う。
しかし、人のすべてが美しいわけではない。
その中にある醜さもまた、その人の魅力の一部だから。
人のいい面ばかりを見ていると、
自分自身の醜さに耐え切れなくなることもある。
自分も人も、醜い部分と美しい部分の両方でできている。
そして、それこそが生きると言うこと。


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以前、頑張れという言葉がいかに重いか
と言うことを話したことがあった。

最近、スピリチュアルと言う分野において
あるがままに。
あるがままに自分でいい。
と言う記述が多く見られるように思う。

まあ、その事自身には間違いはない。
あるがままの自分。
それを受け入れて、始めてその向こうにあるものが見えてくるのだから。
だが、
あるがままの自分、そのままですべてがOKか?
と言うこととなると、話は違ってくる。
あるがままの自分を、いとしくていとしくて、
それ以外の自分になりたくない!
と言う個人なら、そもそも、あるがままの自分を受け入れられない。
などと言うことで悩んでいたりはしない。
あるがままに、
いや、
今の、自分自身に不完全さを感じるからこそ、
悩み、苦しみ、行き詰るのだから。
あるがままの自分を見つめることは、
それこそ、大きな苦しみや痛みを伴うものであり、
それを乗り越えてこそ、初めてなしえることなのだ。

その、到達した自分自身
それが、理想の自分自身ではないことぐらい
自分では分かりすぎるほど、分かっている。
ただ、そこからまた一歩を踏み出すことは、
自分自身を受け入れる痛み以上の痛みを伴う。

人は、どんなに苦しくても、
今、担いでいる苦しさのほうが、
これから担がなくてはならない道の苦しさより
ずっと担ぎやすいものだ。
だから、ほっと一息ついたとき、
動けなくなるのはとてもよく分かる。
だが、自分でも、そこに安住していたくは無いのに
次の一歩を踏み出すのは、それこそ、かき集めた勇気を振り絞る必要があるのだ。
まるで、向こう岸の見えない底なし沼に踏み込むような、
そんな不安を抱えることになるだろう。
でも、今の自分を変えたい!
今の自分とは違う自分になりたい!
そう思う思いがあるから、
必死で次の一歩を踏み出す。
そのとき、宗教と言う名前の杖は、
とてもすがりガイがあり、役に立つように見えながら、
がんじがらめになるようで怖い。
なぜなら、生きることに関する価値観を、宗教の価値観に変えなくてはならないから。
だから、
宗教ではない。
スピリチュアルと言うことにすがる人が増えてきていると思う。

でも、ちょっと待って欲しい。
果たしてそうだろうか?
スピリチュアルは、あなた自身の価値観をゆがめないのか?
あなた自身の生きる価値を、
何か違ったものに摩り替えていないか?
それこそ、言い方は違え、
宗教と同じような方向へとあなたを導こうとしていないか?
自分の努力ですむところを、
何かにすがるようになっていないか?
自分自身の心のうちにある目的と
それが目指すところは本当に同じなのか?

1万人の人がいたら、
1万通りの考えや感じ方があると思う。
1万通りの行き着く道があると思う。
1万通りの行き方があると思う。

一人で歩くのは寂しい。
だが、
多くの人とともにあるために、
自分らしさを失わないように。
多くの人とありながら、
自分自身の自分だけの道を見つめることが出来るように。
そのためにこそ、
今、自分自身を見つめ、
今の自分をあるがままに受け入れると言うことがあるのだと思う。


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正常なオーラ

先日、どこでだったかは失念したが、
オーラを正常にする。
とか、正常なオーラの状態では
というような表現を見かけた。

正常なオーラ?

ということは、異常なオーラもあるのだろうか?
オーラが肉体や精神、魂の状態を表現するのは確かだが、
それは、まさしく、鏡に自分を写すようなものである。
今現在の自分自身の状態をそのままに映し出しているのであり、
どのような形であろうとも、
そこに映し出されたものは間違いのない今の自分自身なのだ。

つまり、オーラに正常も、異常もないということ。

磨き抜かれた鏡が何を映し出そうと、
そこに映るものと、
鏡は関係がないことは明白だ。

ただ、そこに映し出されたもの。
そのものについては、いろいろとある。
人間の心や体のあり方は、実は数え切れないほどのパターンがあり
特に、肉体面においては、
その時代とともにあるべき姿も変化している。

オーラにかんし、美しいという表現をすることが多いが、
それは、オーラが光として認識されやすいからである。
ここで、光として認識されやすいといったのは、
オーラを別の形で認識する方がいるからである。
ある人は、オーラを音で認識していた。
人から発せられる和音が聞こえるのだという。
感情が高ぶれば、やはり音程が変わるそうだ。
又、ある方は、
オーラを温度で感じているという。
暖かく感じたり、冷たく感じたり、風が吹き抜けるように感じたりするそうだ。
つまり、オーラだからといって、
色がある!
というのも、決め付けに過ぎないかもしれないのだ。
では、オーラとはなんだろう?
そう考えたとき、
先ほど述べた鏡にたどり着いた。
オーラは自分自身を映し出す鏡
そこには真実のみがあり、虚飾が入る余地はない。
そして、自分自身を表現するという意味において、
正しいことも、正しくないこともないのだ。
ただただ、そこに映し出される真実があるのみ。
そのことを現実として受け入れ、
自分自身を知り、自分自身を変えてく
その一助になればいいと思う。


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幽体離脱するには、
本人の資質が大きく関係するのだが、
幽体というからには
今生で生まれて、今までの間に培った経験や
いろいろな事象を通じで得た感情、感覚が
その多くの部分を占めているので
必然的に
感情や感覚において大きなエネルギーを持つ
資質もそうであるが、
その深さも大きく影響する。
そのためか、心ならずに起きる幽体離脱は
感情が行き詰まっているときであったり
精神的に大変ストレスを感じているときだったり
大きな出来事があって、心身ともに疲れきっているときだったり
外国旅行など、なれない環境でストレスを抱えていたりするときに
多く発生するように思う。

幽体が心の分野に大きな影響を持つからか
青少年の時代、
つまり、思春期にこの現象を多く体験している。
肉体の中でも、心の成長が著しいこの時期
人は大きなストレスに囲まれることとなる。
大きなストレスに囲まれた人は
気がつかないうちに、心が疲れ来ていることが多い。
今でも、青少年の自殺や、事件がこの時期に多く起きているのは
こういった自然な生理的現象としての流れがあるからだ。

この時代の幽体離脱は、
面白いことに
肉体から余り離れないことが多い。
つまり、気がついたら、空中に浮かんでいて、
下を見ると、寝ている自分の姿があった。
自分自身は天井の辺りを漂っていた。
というのが一番多く、
身体は寝ているのに、上半身が起き上がって部屋を見回したとか
屋根の上にいて周囲を見ていた
など、自分の知っている環境から余り離れていないことが殆どだ。
それは、まだ、成長期にあるため
肉体の成長のエネルギーが強く
精神に対してもそのエネルギーが見えない鎖となっているからだ。

これに対して、
もともと、才能?のある方や
修行をして気を練り上げた方、
精神的に心底つかれきった方などは、
肉体や、自分自身の知識のある範囲を超えて離脱する傾向にある。
この中には、
守護霊や指導霊など自分自身以外のものと移動する場合
気が付いたら、自分自身でも全くどこかわからない場所に移動している場合
思春期と同じように、自分自身の肉体の傍にいる場合
に大きく分けることができる。
これは、やはり、心の持つ重みが
青少年の頃とは大きく様変わりしているからであり、
また、幽体というもの自身が、
複雑化、階層化され、肉体に匹敵する影響力を持つようになったからでもある。
いや、場合によっては、その影響力は肉体をも凌駕する。
なぜなら、
幽体離脱において、
肉体から離脱するのは幽体だけではなく
霊体もまた、ともに抜け出すからである。


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幽体離脱

講座に来ている方の多くが、
幽体離脱に興味があるということがわかった。
幽体離脱を実際に体験している方も、
結構な人数の方がいることもわかった。
ところが、
この体験の中身は結構色々と違っているようだ。

幽体離脱とは何なのだろう。
物の本によると
修行をした人が心を遠くに飛ばす
と言う表現が数多く見られる。
それとは別に、
守護霊とともに霊界を探訪した
とか、
気がついたら霊界にいて
細い紐がずっと遠く、自分の体までつながっていた。
と言う表現の2種類が圧倒的に多いように思う。

ところで、まず、幽体離脱と言うからには、
幽体が肉体から抜け出る。
と言うことが最低条件のはずである。
では、幽体とはなんだろう。

人間の体は、3つのものからできていると先だって書いた。
1つは 肉体
1つは 幽体
1つは 霊体
この3つである。
このどれひとつが欠けても、現在生きている人間とはいえない。
どれひとつが欠けても、生きているとはいえなくなる。
ただ、時として、肉体から他の2つが出ることがある。

これを総じて幽体離脱と言うのだが、
この内容にはさまざまな段階があるように思う。
それは、幽体の質と関係があるのか?
それとも、霊体の質に関係があるのか?
いや、それ以前に、
本人の資質と、
その現象が起きた場所に問題があることが多いように思う。
もっとも、
幽体離脱自身の発生は、
素質による所が多いものではある。

長くなりそうなので、
続きは明日。


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