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雨月

Author:雨月
カウンセリングやヒーリングを仕事として*年
最近では、スピリチュアリストと言う方が通りが良くなりました。
生きとし生けるものが大好きで、人が大好きで、何より寝ることが好き!
比叡の山中に庵(虹の風)を構えています。
疲れたら、一休みしにいらっしゃいませんか?
琵琶湖の風に吹かれ、鹿やいのししの声を聞き、鳥に目覚めを即される。そんな庵です。


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人と人がコミュニケーションをとるには
とてもたくさんの手段がそろっている。
直接あって話す。
それにしても、会議のように改まって話す。
お酒を交えながらじっくりと話す。
おいしいものを食べながら話す
きれいな景色を見ながら二人きりで話す
それ以外にも、
電話で話す
手紙を出す
ファックスを送る
伝言を頼む
最近では、手段はますます増えてきた。
携帯電話で話す
メールで送る
チャットで会話する
TV電話で話す。

コミュニケーションの手段は増えてきて
果たして、実際のコミュニケーションはどうなったのか?
より、親密に、コミュニケーションが取れるようになったのだろうか?
手段が増えた分、
ストレスや、気を配らなくてはならないことが
増えたような気がするのは私だけなのだろうか?
携帯やメールで簡単に連絡が取れるがゆえに、
すぐに返事が来なかったり、
相手が出てくれなかったりすると、
簡単に不安にもなる。

きっと、何か用事があるのだろう。
と、思いながらも、嫌われたのか?
もしかしたら、居留守?
などと、いらぬ気を回さなくてはならなくなる。

ついつい、着信を見落としたり、
携帯を忘れて出かけてしまったりすると、
とても悪いことをしたような気がしたりする。
携帯が無かったときには、考えられなかったことだ。
夜中でも、
携帯は個人につながっているから、
ついつい、連絡を入れやすくなる。
自分の時間と言うものと、人の時間と言うものが、
密接につながってきているような感じがする。

私自身は、携帯を持って、もう、20年になる。
以前は、携帯と言うもの自身が珍しかった。
料金もかなり掛かったので、
話も、早めに切り上げて当たり前だった気がする。
いま、携帯によっては、通話料が0円・・・・
おのずと、会話も長くなる。
携帯は、めーるは、私がどこにいようと容赦なく掛かってくる。
時々、逃げ出したくなるときがある。


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巷に、「癒し」と言う言葉が氾濫してきている。
「癒しキャラ」・・・
「癒しグッズ」・・・
ここでの『癒し』とはいったい何なんだろう?
心が傷ついたとき、「癒しグッズ」で癒されるのか?
心が傷ついていて、「癒しキャラ」で癒されるのか?
一時はその痛みから離れたように思うかもしれない。
でも、それは癒されたと言うことなのだろうか?

相手の痛みに共感して、
判ってあげられたとする。
それからいたすことへの一歩を
私たちはどうやって踏み出したらいいのだろう。
言葉と言うものはとても不自由なもので、
自分で思っている通りに伝わるとは限らない。

これまで生きてきた時間のすべてを共有することはできないし、
また、そんなことをしたとて、「癒す」ことができるとは限らない。
では、「癒す」と言うのはいったい何なんだろう?
時には、時間だけが「癒す」ことのできるものがある。
時には、人の心が「癒す」ことができつこともある。
いや、もしかしたら、「癒す」こと自身が幻なのかもしれない
今感じている痛みは
感じていると言う部分において現実だ。
なら、この痛みに対する「癒し」もまた現実なのだろうか
そうなら、この痛みを「癒す」何かがどこかにあるのだろう
それはどこに?

いくら一生懸命外を探しても
なかなかそれは見つからない
痛みでいっぱいの自分自身の中には
もちろん、「癒し」など存在しない

でも、大切なことは、
傷ついている自分自身が、
「癒される」と言うことを受け入れると言うこと。
あまりに傷口が痛いと、
何も見えなくなる。
何も聞こえなくなる。
それでも、時々見えてくるものがある。
それでも時々聞こえてくるものがある。
ほんのちょっとでいい。
隙間を空けておきたい。
そして、自分自身が癒されるとき、
いつの間にか周囲もまた「癒されている」ことに気がつくだろう。

無理をしなくていい。
こうじゃないといけない!
などと言うものはそんなにはない。
こうじゃないといけない!
は、人から押し付けられたものだったり
自分自身でいつの間にか作り出したものだったり
「こう」でも「そう」でも「ああ」でもみんなそれでいい
人生に教科書は無いのだから
人生に試験もまたないのだから
自分自身に点数をつけるのは自分しかいない
思い切り甘い点数をつけても
思い切り辛い点数をつけても
「自分」と言うものに変化が起きるわけじゃない

「癒す」ことも、「癒される」ことも
どちらも同じこと
同じ所にある。


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私たち(日本人は特に)は
自分のことを幸せだ!とは思っていないことが多い。
いや、
ほとんどの場合
ちょっとだけ不幸せだと思っている。

そんなはずが無い。
と思うのなら、井戸端会議に出かけてみよう。
公園の隅、団地の一角
交わされている話のほとんどは
ちょっとした不幸な話ばかり

亭主が如何にぐうたらか・・・・・
子供が如何に言うことを聞かないか・・・・
姑とうまくいかない・・・・・
給料が上がらない・・・・・
ガソリン代が高くなって困る・・・・
ご近所がうるさくて困る・・・・

どれを取ってみても、幸せ自慢とは言いがたい。
なぜ、こんなに不幸なことが多いのだろう?
私たちの人生は不幸なことの連続?
話を聞いていると、
なんだかそう思えてくるから不思議だ。
これでは人生楽しいはずが無い。
じゃあ、人生は苦しむためにあるのか?

耐えられる範囲の不幸
我慢できる範囲の不幸
話題にできる程度の不幸
嫉妬されないための不幸
友達を0なくさないための不幸
人に知られてもいい程度の不幸
悲惨過ぎない不幸

あれ?
何だか変なことが入っているぞ?
嫉妬されないためや、
友人をなくさないために
不幸が必要なのだろうか?

そうなのだ!
日本は島国のためか
みんなが同じ環境である。
みんなが同じ位置に立っている。
と思うことができることがとても大切なのだ。
周囲より、多くのお金を持っているとしよう。
それと見合う程度の何か。
ちょっとした大変なこと(ちょっとした不幸)
があれば、周囲の人はそのお金に嫉妬しなくてすむ
そのために、
ちょっとした不幸話をするということは
まるで潤滑油を挿したかのように人間関係をスムースにする。

しかし、それでいいのか?
毎日、毎日、不幸ばかりを一生懸命話していると、
なんとなく自分自身に不幸が染み付いてくる。
はじめは、ちょっとした潤滑油のための不幸話だったはずなのに、
毎日話しているうちに
それは耐え難い大きな不幸となってしまうことがある。
自分の中で、その不幸の持つ意味がだんだん大きくなるのだ。

周囲と調和して生活する。

これはもちろん大切なことだ。
人を傷つけず、自分も傷つかないために
いろいろな努力をする。
これもまた大切なこと。
そのために、ちょっとした不幸話が必要なら
それもまたいいだろう。

だが、忘れないで欲しい。
本当にそんなに不幸なのか?
本当にそんなに悲惨なのか?
自分自身の心の中だけで良い。
ちゃんと、バランスよく不幸の量を量ること。
自分を不幸な人間だと思い込まないように
ちゃんと自分自身を見つけておくこと。
忘れそうになったら、
大切な家族や友人の言葉に耳を傾けてみよう。
信頼と、愛情のこもった言葉で
自分自身を癒すことを許してあげよう。


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