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雨月

Author:雨月
カウンセリングやヒーリングを仕事として*年
最近では、スピリチュアリストと言う方が通りが良くなりました。
生きとし生けるものが大好きで、人が大好きで、何より寝ることが好き!
比叡の山中に庵(虹の風)を構えています。
疲れたら、一休みしにいらっしゃいませんか?
琵琶湖の風に吹かれ、鹿やいのししの声を聞き、鳥に目覚めを即される。そんな庵です。


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心頭滅却すれば火も自ら涼し
と言う言葉はあまりにも有名ですが、
どんな意味だと思いますか?

先日、この話題が出て、
答え1
悟りを開いたら燃え盛る火の中にいても、熱く感じない。
答え2
頭が熱いといっていることを感じなくすれば、燃える火も熱くなくなる。
答え3
心からも頭からも今、火の中にいるということを締め出せば、熱い火も熱く感じなくなる。
答え4
今、熱くないんだと自己催眠をかけたら、火の中にいても熱くない。
主な答えですが、
このような感じの答えが出てきました。
さて、正解は?
と、クイズではないので話を進めますが、
これらはすべて、正解で、不正解です。

この話はもともと、
こんな背景で語られた一文の一節です。

「碧巌録(へきがんろく)」は、「従容録(しょうようろく)」とともに、
禅門の2大禅書と言われていますが、
そのうちの「碧巌録(へきがんろく)」の前半の部分に、
「安禅(あんぜん)必ずしも山中をもちいず、心頭滅却(しんとうめっきゃく)すれば火も自ら涼し」
と言うのが出てきます。
この言葉は、甲斐の国(現在の山梨県)の鎌倉期に
夢窓国師を招いて開基した 甲州随一の名刹(武田信玄の菩提寺として有名)として名高い
恵林寺(えりんじ)の禅僧、
快川紹喜(かいせんしょうき)が、この「碧巌録(へきがんろく)」を大変に好んでおりました。
時の権力者織田信長に抵抗し、
信長の怒りにふれて寺に火を放たれてしまいます。
このとき、禅僧快川は少しも動ぜず、
上記の一節である
「心頭滅却すれば火もまた涼し」を唱え、
火中で禅定(ぜんじょう)に入ったまま焼死してしまいます。

これらの背景を考えながら、
この一説をもう一度考えてみると、
違った一面が見えてきます。

もともと、これは禅問答の一部でした。
良く、
宗教弾圧の話の中で、
キリスト教の殉死の話がありますが、
信念を貫くために、
あえてその拷問や死を受け入れるといった部分です。
日本における
キリシタン弾圧の歴史に、
オラショを唱えながら、火に焼かれた。
と言った部分が良く出てきます。
快川紹喜は、決して悟って、それゆえに
火の中にあって熱いと思わなかった。
と言うわけではないのです。
身を焦がす火の中にあって、
そこから出ず、死する。
そのためには、大変な精神力が必要です。
その精神力を、
日ごろから信念としてきた書物の一説に求めた。
それがこの「心頭滅却すれば・・・・」
だったのだと思います。

この禅書に出てくる
一説を唱えることによって、
自分は自分の信じる所に殉ずる。
死してなお、自分の信念を貫く。
自分自身の信念において行った行為の結果、
たとえ殺されようとも、
織田信長という権力にひざは折らない。
なぜなら、ひざを折ることは信念を捨てるのと同じ行為だから
だから自分はこの火の中で死んでいくのだ。
と言っていたのです。
いわゆる、憤死に近い、
いや、憤死そのものだったと考えられます。
この時代、織田信長の残虐性は周知の所だったから、
快川紹喜は、たとえ、降伏した所で、
自分が殺されるだろうと言うことはわかっていたはずです。
この時代、
僧侶と言うだけで、
殺されずにすむという時代でしたが、
その例外が織田信長という人間でした。
織田信長は、たとえ僧侶であろうと、
自分に反抗するものは死を持って排斥したのです。

これに対して、
快川紹喜は、同じ殺されるなら、
憤死という方法で、
残された人々への勇気と、
ここに、権力に屈しない人間がいるんだと言うことを、
周囲の人々とともに、織田信長にも知らしめたかったのではないでしょうか?
そして、残された人々に、
権力に尾屈しないで信念を貫くことが出来る。
信念の為に殉じることが出来る人間がいる。
信念とは、命を欠ける価値がある。
と言いたかったのだと思います。
これは、彼の禅僧としての生き方の総決算であり、
彼が死してなお禅僧であろうとした
その生き様の表現だったのでしょう。
一種のやせ我慢でしょう。
それも、一級のやせ我慢だと思います。
しかし、それだからこそ、
後世まで語り継がれ、
今、現在の私たちでもこの言葉を知っています。
それだけでも、
快川紹喜の憤死の意味があったと思うのです。

実際に、
最初の答えのような状態と言うのはあると思います。
たとえば、
真冬に雪が降る中で滝行をするときがあります。
滝に入るまでは身が凍るように寒いのに、
真言を繰り返し唱えているうちに、
水の冷たさ、空気の冷たさなど、
感じなくなることが良くあります。
(もっとも、この状態で長時間いるのは危険なので、
 必ず先達が付きます。
 どうか、一人でまねはしないでください。)
一心に何かをしているときに、
時間をまったく感じなくなったり、
大声で呼ばれても、まったく聞こえなかったりする。
これらも
よく似た状態だと思います。
しかし、それは、夢中になる。
とそれほどの違いはありません。
しかし、状況から考えると、
快川紹喜は、信長に対する憤怒のあまり、
この状態になったと考えるよりは、
(なぜなら、憤怒からわれを忘れたのだとすると、
 心頭滅却している状態にはない。のですし)
憤死したと考えるほうが自然でしょう。
壮大なやせ我慢の
「心頭滅却すれば火もまた涼し」

私は、大好きです。
このくらい壮大なやせ我慢、
意地と信念とと命をかけたやせ我慢。
信念を持つとは、
ひたすらにこうあることなのだろうと思う。

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