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雨月

Author:雨月
カウンセリングやヒーリングを仕事として*年
最近では、スピリチュアリストと言う方が通りが良くなりました。
生きとし生けるものが大好きで、人が大好きで、何より寝ることが好き!
比叡の山中に庵(虹の風)を構えています。
疲れたら、一休みしにいらっしゃいませんか?
琵琶湖の風に吹かれ、鹿やいのししの声を聞き、鳥に目覚めを即される。そんな庵です。


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生まれ変わる

人は、生まれ変わります。
転生を繰り返すのが人である。
というのは、本来は仏教的な考え方ではあるが、
世界中に普遍的に信じられていることでもある。

人はなぜ生まれ変わりを信じるのだろう?
中には、生まれ変わりなどない!
という方もいる。
だが、本当に多くの方が、生まれ変わりを信じている。
なぜ、生まれ変わりがあると信じたいのだろう?
そのもっとも大きな要因は、
人が、生まれ変わるのでないとすれば、
今生において、何をしてもいいのではないか?
という漠然とした恐れからである。

恐れ?
そう、恐れているのだ。
生まれ変わりを否定することは、
今の生に対する執着を否定することにもつながりまねない。
なぜに否定になるのか?
それは自己愛というものの故である。
生きるということは、ただ生きていればいいというわけではない。
そこに、幸福感というものがなくてはならないのだ。
自分自身を愛するには、
自分自身が、愛するに足る、
そして、愛されるに足る存在でいなくてはならない。
愛するに足る、愛されるに足る存在とは、
基本的にいい人でなくてはならない。
そう思うと、
ただ、いい人として生きていけばいいのだが、
なかなかそうは行かない。
いい人として生きるための、
別の理由が必要なのだ。

愛するの足る存在であること。
愛されるに足る存在であること。
このために、いい人であろうと生きてくとすれば、
それは、
とてもいい人ではない行為のように思える。
矛盾しているようだが、
本当にお金を欲している人は、
人前で、
お金がほしい。
とあからさまにはいわないものである。
人間は少々ひねくれた生き物なので、
素直に、
愛するに足るじぶんん、愛されるに足る自分
そのために、自分は今、いい人であろうとしているんです。
とは口が裂けてもいえないのである。

なんと不便なのだろう。
人間でなければ、
もっと素直に、ほしいものをほしい。
ということができるだろうに、
もっとも、ありがたいことに、
人間くらいしか、
このようなややこしいことを考えてはいない。

簡単にいえば、
人から悪人だとか、
ずるい人だとか思われたくないのだ。
そう思われたい人がいるだろうか?
人に、「善」と「悪」という感覚が生じて以来、
この感覚は複雑化し、人生の総てといっても良いほどのものを
これに支配されるようになってしまった。
「善」を良きものとし、「悪」をよくないものとする以上、
人が、自分自身の立ち位置を
「善」である側に置こうとし始めたのは、
無理ではないだろうと思う。

もちろん、私だってそうである。
人に、悪人と思われるよりは善人と思われていたい。
私自身は、自分ではそう悪い人間ではないと思っているが、
勿論、聖人君子などには程遠い。
ただ、自分は悪人だとは思っていないし、
あえて悪人でありたいとも思わない。
まして、人から、悪い人だといわれたくはない!

こういった気持ちはどこから来るのかというと、
今、生きているこの生のみが自分にとってのすべてだとすれば、
欲しければ人のものを盗るも良し、
腹が立てば、人を殺してもいいのかもしれない。
捕まりさえしなければ、
何をしても、許される。
そんな気持ちになってもおかしくはないだろう。

そういった心への抑止力として、
「善」と「悪」対比が生まれた。
これを固定化し、より強烈なものとするのに、
転生の思想は、大変と役に立っている。

人は、いい人だと思われたいだけではない、
いいことと思われるようなことをすると、
やはり誰かにそれを認めてもらいたいのだ。
しかし、いつも誰かが見ていてくれるわけでもないし、
見ているよ。といってくれるわけじゃない。
そうすると、どこに助けを求めるのだろう。
そんなときに、
人知を超えた存在があって、
それが総てを見てくれている。
というのは大変に状況にあった志向である。
目に見えない目。
人知を超えた存在。
この二つが結びつくと、
人間ではできない判断や
人間ではできない信賞必罰が可能になる。
これにマッチしたのが生まれ変わりだ。
いいことをすれば、
いいところに生まれ変わることができる。
悪いことをすれば、
自分にとってつらいところに生まれ変わらせられる。

単純で、しかも、機能的である。
来世という、まだ来ぬ未来に対して、
希望や恐怖を抱くことができる。
そして、
まだ来ぬ未来だからこそ、
今の努力でよりよい生がある。
今よりすばらしい生がある
と思うこともできる。

ことはそう単純ではないのだが、
単純に考えるほうが人には効果的だった。
だから、多くの宗教で、
生まれ変わり思想は肯定され、
信仰心を深めたり、
信者を獲得するとても都合のよい道具となった。

私は人が人に生まれ変わることを知っている。
なぜ生まれ変わるかも知っている。
ただ、どこに、どうして生まれまわるのか?
については、
今まで述べたような、
人生の信賞必罰のようなものではないと思っている。
もっともっとシビアで、
シビアというよりは喜劇かもしれない。
人の善悪の基準など、
存在の法則から見れば、些細なものなのだから。

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