ほとんどの人が、
自分は常識のある人間だと思っている。
もちろん、私もその一人である。
少なくとも、
非常識な人ではない。と思っている。
非常識な人
と言う言葉には、大変マイナスのイメージが付きまとう。
とても、何かいけないことをする人のようで、
それたちょっとした犯罪者とも言えるような、
そんな陰に偏った感覚がある。
あの人は非常識だから。
と言われると、
ある意味、存在自体を否定されているに近い感じすらある。
でも、「常識」ってそんなに大切なものだろうか?
第一、「常識」と言う言葉が指す
あらゆるものはどこで定義されるのか?
日々、刻々と変化する「常識」。
10年前には、携帯電話を持っていることは
とてもまれなことで、
携帯電話に連絡をするように頼むのは、
ちょっとした常識外のことだった。
いまや、携帯を持っていることが普通であり
常識的行為の範疇に入るようになった。
このように、「常識」と言うものは、
生き物のように変化し、
何時、どのように変化するかもわからない代物である。
ちょっと気を抜いていると、
ついこの間までの常識は
非常識と言われる行為にもなりかねない。
その前に、
「常識」とされる行為そのものですら
その境界はあやふやである。
人に何かをもらったとき、
どれだけの御礼をするか?
そして、それを受け取るか受け取らないか?
たったこれだけのことに、
人はとても苦労する。
御礼をするのは「常識」なのだそうだが
どういったお礼を
どのようにするべきか?
これがまた諸説さまざまである。
もちろん、ケースByケースと言えばそうだろう。
だが、同じことについてでも
どうお礼をするべきかについては
とても多くの意見がある。
それぞれに、もっともな意見であり
どれをとっても、一見正しいお礼の仕方なのだが
それぞれがあまりにも違うとき、
我々はいったいどうするべきなのだろう?
これらのことを考えるとき、
「常識」では、とか、「常識的」に考えて、
と言う言葉か飛び交う。
は?
「常識」ってどこに?
これだけ違う意見が全て「常識」なら
それこそどうしたらいいのかわかるはずがない。
結果的には、自分自身が納得のいくことをするしかないのだが
その行為が相手にとって
「常識」の範囲に入ると言う保証はない。
時によっては、
「非常識」のレッテルを貼られる危険すらあるのだ。
かといって、
「あなたはどのようなお礼が妥当だと思っていますか?」
などと、相手に聞くわけにもいかない。
それこそ、「非常識」と言われてしまうだろう。
「常識」と言う名前の
とてもフレキシブルな感覚と言葉に、
人はいとも簡単に振り回される。
そして、それは私自身もなのだ。
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