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雨月

Author:雨月
カウンセリングやヒーリングを仕事として*年
最近では、スピリチュアリストと言う方が通りが良くなりました。
生きとし生けるものが大好きで、人が大好きで、何より寝ることが好き!
比叡の山中に庵(虹の風)を構えています。
疲れたら、一休みしにいらっしゃいませんか?
琵琶湖の風に吹かれ、鹿やいのししの声を聞き、鳥に目覚めを即される。そんな庵です。


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ゆっくりずむ

 ゆっくりで良い。 と、人はいう。
 あせらなくていいんだよ。 と、友人が言う。
 ちょっとお休みしましょう。 と、先生が言う。 


でも、あせってしまう・・・・

周りを見回せば、みんな急いでいる。
自分も急がなければ、きっと取り残されてしまう。
そうとしか思えない。
体がこわばって、動けなくなっても、
心は忙しく動いている。
あっちもこっちも、気になることばかりが目に入ってくる。
今、これをしなくては!
今、この事をやっておかなくては!
いくらみんなが、あせらなくて良いよ。と言ってくれても、
の心は、常に騒いでいる。
そうしている間に、置いて行かれる恐怖でいっぱいだ。

 ゆっくりで良い。 と、人はいう。
 あせらなくていいんだよ。 と、友人が言う。
 ちょっとお休みしましょう。 と、先生が言う。

そう言ってくれる人たちは、みんな、忙しそうに動いている。
私に、声をかけてくれながら、
その目は違うところをすでに見ている。
もう、私など、目に入れる価値がないかのように。

 はここにいていいのかすらもうわからない。
 は自分自身が誰なのかにも自信がない。
 は今、生きているのかどうかも不安で仕方がない。 


それなのに、
 ゆっくりしましょう。
 あせらなくていいよ。

といわれても、それは、
 あなた はもう、私達に価値がなくなったよ。
 あなた は存在しなくていい人間だよ。
 あなた には何の期待もしていないから。

としか、響いてこない。
みんな、私のことを心配してくれているのだとはわかる。
でも、それは、
私がどんなにダメな人間なのかを思い知らせてもくれる。
必要な人間なら、
役に立つ人間なら、
 やすんでいいよ。
なんていうのだろうか?


 の心の中は、出口のない迷路。
誰の目にも写らない迷路の中で、永遠にさまよっている。
 



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欲望と言う名の泉

聖人と呼ばれる人が言う

欲望を捨てなさい。
欲望がすべてのトラブルの元になっています。

もし、欲望と言う言葉に包括されるすべてのものが
あなたから去ってしまえば、
そこには、魂の抜け殻となった死体しか残らない。
なぜなら、

  生きたい! 


と、思うのもまた、欲望の一部だからなのだ。
貪る必要は無い。
しかし、欲を持つことは、生きる上において大きな根源のエネルギーともなる
 
  より喜びに満ちた人生を送りたい。

それは、あなた自身生き方をもかえ得る。

  貧しさの中に生まれ変わりたくない。
  老いさばらえた身になりたくない。
  病に冒された体を持ちたくない。
  そういった世界に生まれ変わりたくない。


それが、裕福で満ち足りた王子であった仏陀のスタートだった。
妻も、子も置き去りにし、王子と言う職務にあるべき責任を投げ出し
なんと強欲なことだろう。
なんと傲慢なことだろう。
しかし、その行き着いたところは?

人がその山の頂点に立つために、
スタートから清廉潔白である必要は無い。

何を目指すかではなく、
何を学ぶか。が問題なのだから。
 



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得度への道 その2

日本に仏教が入ってきたのは、今の中国を通してだった。
それゆえに、多くの中国の思想がその中には溶け込んでいた。
私たちが、一くくりに仏教と呼んでいるものは、
実は、中国の道教とチベットの仏教の融合したものなのである。

もともと、仏教は個人のためのものだ。
仏陀は、王子として生まれ、老いや病、貧困を始めて目にしたとき、次に生まれ変わるときに、こういった老いや病、貧困の中に生まれたくないと願った。
自分自身が老いることも無く、病に付することも泣く、貧しさにあえぐことも無いためには、生まれ変わることが無ければいいのである。
つまり、実に人間的な、実に利己主義な心から、仏陀は修行の道に入ったわけなのだ。
その目的は人として、苦しみのあるこの世に生まれ変わる必要の無い存在となることを求めて・・・・

私は、この事実が好きだ。
物事を求めるのに、そのとっかかりは何でもいい。
それを求める課程において、何かが起き、それによって人は変わっていくことが出来る。
それをこれほど如実に顕してくださっている。

そのはじめの動機が崇高である必要は無いのだ。
ひたすらに目的に向かって邁進するとき、人はいろいろなものに出会う。
それを真摯に受け止め、
それに対する素直な気持ちをなくさないこと。
そして、そういった出会いから学んだことを、
真に自分の血肉とすること。
その中には、当初の目的をお菊変化させるような出来事や出会いもあるだろう。
固執せず、しなやかに、自分自身がその時に真に求めるものに向かって
修行と言うのは、
決して、寺院や山の中でだけするものではない。
毎日の生活の中に、
毎日の仕事の中に、
毎日の人との出会いの中に、
そこにこそ修行の真髄がある。
座禅や瞑想を通して、自分自身の内側を見ることはもちろん大切だが、
そのためには、自分自身というものを知らなくてはならない。
いろいろな体験や出会いを通して、これまで自分自身ですら知らなかった自分との出会いがある。
その自分時sんをどう受け入れるか。
自分ですら、思いもしなかった自分の一面。
その一面をどのように受け止めるか。
それこそが修行というものの意味だろうと思う。



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得度への道 その1

私は、現職の尼僧です。
尼僧になって10年目の区切りを機に、
自分自身がなぜ、今、尼僧と言う立場を持っているのか・・・
思い返してみた記録です。


昔、寺と言うのは人々の尊崇を受けた。
寺院に居る坊主と言うのは、それなりに人生の辛酸をなめ、
文字色とは、生きるとは、と言うことを真剣に考える人々だった・・・はずである。
なのに・・・
いま、
寺院において、それらの精神はどこへいってしまったんだろう。
私は、チベット密教から日本で得度した変り種ではある。
だから、日本のお寺と言うもの、
日本の仏教界というものにあまり関心はなかった。
実際に得度してみて、
 年功序列
 学歴優先(仏教系大学のみ)
 血統優先
 金銭優先。
の社会構造になっていることに愕然とした!
いや、こんなことは多分、常識なのかもしれない。
でも、私は、仏教や新党の世界はそれでも、もっと正常に動いていると思っていたのだ。

つくづく甘い私だった。


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なぜ?

人間、100人いれば、
 100通りに考え方があり、
 100通りの常識があり、
 100通りの正義があるのだと思う。

常識と言う言葉は魔物のようなもので、皆同じだろうと勝手に皆が考えていること。
家族を大事にするために、残業、休日出勤をしてひたすら働く夫に、
家族を省みない。子供のことなんかちっともかまってやってくれない。
と怒る妻。
家族が大切だからと単身赴任を断って窓際に遣られた夫に、
少しは家族のことも考えて、出世してお給料を上げるようにしてくれないと困る。このままではリストラ対象になる。
と怒る妻。

この二組の夫達も、妻達も、それぞれに皆家族のことを思っている。
そして、それぞれが、自分の考えが常識で正しいと思っている。
これは、私が実際に出会った家族で、一人ひとりは、本当に一生懸命華族のこと、
子供のことを考えていた。
ただ、その考えが食い違っていただけ・・・・
一人ひとりと接してその話を聞けば、
「そのとおりだね。あなたの考えていることは大切なことだと思う。」
と人は言うだろう。
同じ家族というものを前にしても、これだけの違いがあり、
違うことが当たり前なのだ。

当たり前・・・常識・・・正しいこと。

それらは幾通りもある。
幾通りもあるからこそ、人生はバラエティーに飛んでいるのだし、
行動や発想に幅や広がりが出るのだと思う。

いま、ボランティア団体にかかわってきて、
いや、コレが初めてじゃない。
コレまでにもいろいろな団体にかかわってきたことはある。
そうして私の得た結論は、私自身は団体向きではないのだと言うこと。
団体向きじゃない人間は結構たくさんいる。

団体であることは、個人であることとは大きく違う。
ずっとずっと、行動も制限されるし、できることは少なくなってしまう。
なぜなら、団体と言う大きな図体で、一人が、自分のやりたいことをしていると、
ソレが一部の人たちの賛同を得たとしても、
責任やその他は団体に来るからである。

団体の一員であると言うことはそういった不自由をも含むものなのだ。
自分のやり方がコレまでいかに素晴らしかろうと、どんなに信念に満ちていようと、
ソレとコレとは関係の無い話なのである。
自分自身に信念があり、自分のやり方を貫こうというのであれば、
自分自身で自分をトップとした団体を作り上げるか、一人で活動するしかないのだ。
誰かの趣旨に賛同し、そこに参加したのであれば、
どんなにいらいらしても、どんなにうずうずしても、
その団体のやり方と言うものに従うことが必要であり、
ソレを変えようとするならば、
そこには根気強い努力と話し合いと言うものが必要になるのは当たり前なのだ。

自分がこうやってきて、
これだけの成果をコレまでに出しているのだから、
  自分のやり方をみんなが見習え!
  自分のやり方をさせろ!
  自分のやり方が正しい!
と言うのは、集団と言うものを軽んじているとしか言いようが無い。
少しずつ、少しずつ、砂浜に雨がしみこむように浸透していく努力。
時間はかかるかもしれないが、
誰もが、それが自分の一部であるかのように当たり前に受け止められるように。
変化とはそうありたいものだと思う。

これまで、やったことが無いことをしている人たちに、
先を行く者は、手をさしのべ、助言し、、導くことが大切であり、
けなし、叱り、押し付け、耳を貸さない態度に出るべきではない。
たとえソレがどんなに未熟な方法に見えたとしても、
一生懸命経験をつんでいるときに、
一足飛びに、ベテランの方法を押し付け、
何でこうしないんだ?と言うべきではないとおもう。

始めてやる事が上手に出来るはずがない。
回数を重ね、経験をつみ、底に助言を生かし、人はそれらを自分のものとしていく。
人は、自分で失敗したことからは多くを学ぶことが出来るが、
話に聞くだけの耳学問からは少ししか得ることが出来ない生き物だと思う。

もちろん、始めの方に書いたように、
あるべき姿とか、考え方とか
正しいこととかは100人いたら100通りあるのだと思うから、
私が正しいなどと言うつもりはない。
私は、私の思うことを思い、考えることを考え、ソレに基づいて行動する。
これまでの経験を振り返り、人と人の間に立つと言うことの難しさ。
特に、どちらもがこれまでの人生にプライドを持っている場合のそれの難しさを実感している。

なぜ、まあ、いいか。と思うことが出来ないんだろう?
    誰もあなたの命を取ろうとはしていないのに。

なぜ、相手の立場や考え方を思いやることが出来ないんだろう?
    貴方にも立場や考え方はあり、理解されたいだろうに。

なぜ、許すことが出来ないんだろう?
    許すと言うことは、自分自身が許されると言うことでもあるのに。

なぜ、一歩譲れば、もう一歩譲れと詰め寄るのだろう?
    自分も、一歩を譲ればそれで収まるのに。

なぜ、勝たねばならないんだろう?
    そこに勝者などいないのに?



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